『 夜が明けて、陽はまた射して 』
ねえ、僕は生きているの?
生きているといえるの?
眠れないからだ。
熱いとか冷たいとか、痛いとか気持ちいいとか・・・・・・そういうのも、判らない身体。
お腹も空かないし、のども渇かない。
ねえ、僕はちゃんと生きているの?
生きていると、いえるの?
視ることは出来るし。音も聞こえる。
腕や脚を動かすことは出来る。
だけど・・・・・・。
ねえ、僕は生きているの?
幽霊ではないの?
鎧にとりついた幽霊ではないの?
僕は本当に、ここに存在しているの?
教えて、どうかおしえて。
おしえて、ねえ、たすけて。
怖いよ、怖いんだよ。
ねえ、たすけて・・・・・・・・兄さん。
兄さんと二人で『母さん』を作ろうとして、失敗をした。
リバウンドで兄さんは左足を失って・・・・・・僕は全身を持っていかれた。
兄さんは僕の魂を練成した。
自分の右腕を差し出して、僕の魂を部屋にあった鎧につないで・・・・・・・・・。
そして僕は今、空洞の鎧・・・・・・。
怖かった。夜になるのが怖かった。
みんなが眠って静かな真夜中、眠れない僕の夜は長くてとてつもなく長くて。
暗いくらい闇の中で誰もがみんな眠っているのに。
こんな夜中に動いているのは幽霊くらいだ。
ねえ、僕は本当に生きているの?
僕は生きているの?幽霊とは違うの?
幽霊みたいに・・・・・・・・朝になったら消えちゃわないの?
夜になるのが怖かった。
眠りのない長い長い夜はぼくを不安に駆り立てた。
怖かった。怖かった。
どうしようもなく怖かった。
だけど・・・・・・・・・・。
それどころではなくなった。
それどころでは、なくなってしまった。
兄さんが・・・・・・壊れて、しまう・・・・・・・・・・・・。
物心ついたころから、兄さんが僕のヒーローだった。
村の同年代の子供たちの間でも人気があって、強くて、格好良くて。
錬金術でいろいろなものを作って見せてくれて。
何時だって僕の憧れだった。僕の目標だった。
兄さんと一緒にいれば、何も怖くなんてなかった。
兄さんがいるから大丈夫、って、何の疑いも迷いもなく。
だけど、今。
兄さんが食事を取らない、眠らない。
僕が眠れない身体になったと知り、痛みも熱さも冷たさも、何の感覚も無いのだと知り、兄さんは半狂乱になった。
僕自身よりも、深く深く、絶望した。
兄さんが食べなくなった、眠らなくなった。
大量の血を失った、片腕と片足を失った小さな身体は、衰弱して簡単に折れてしまいそうに見えた。
僕は自分の現状に、叫び出したい気持ちになることもあったけど、でももう、それどころじゃなくなった。
兄さんが・・・・・・壊れてしまう。
僕はもう、ただただ必死だった。
自分の恐怖なんかもうそっちのけで、ただ、兄さんに死なないで欲しかった。
ただ、兄さんに生きて欲しかった。
兄さんを失うことのほうが、怖かった。
「大丈夫かな、ばっちゃん。僕にちゃんとできるかな。兄さんを潰しちゃったりしないかな。ねえ、ウィンリィ」
僕はオロオロしながら二人に尋ねて。
ばっちゃんは僕に、壁にもたれて胡坐をかくように言って。
「大丈夫だから、そこにお座り」
「アル、大丈夫よ。だっていっぱい練習したじゃない。いっぱい練習して、力加減覚えたじゃない?私の腕、もう痣なんてついてないよ?大丈夫よ、アル」
励ますように、座った僕の肩を叩いてウィンリィが笑顔をつくる。
胡坐をかいた膝の中にクッションが置かれて。
腕の中に、毛布にくるまれた兄さんを渡される。
「ほらアル、ちゃんと抱っこしていておあげ。名前を呼んで、たくさん撫でておあげよ、エドがちゃんと安心できるように。弟のお前にしか出来ないことなんだからね」
ばっちゃんもウィンリィも、一度も、僕のことを可哀想とは言わなかった。
これまでの僕に対するのと、まったく同じに接してくれた。
何も変わらないみたいに。
それが当たり前のことみたいに。
そしてあたり前のことみたいに僕に役割を与えてくれた。
酷い怪我を負って精神をすり減らして衰弱した兄さんの身の回りの世話を任せてくれた。
血のつながった弟なのだからと。
僕を‘人間’として扱ってくれた。
ただ普通に、人間として扱ってくれた。
当たり前なことみたいに、何も変わらないみたいに。
朝も昼も夜も、兄さんを腕の中に抱っこして。
薄いガラスで出来た壊れやすい宝物みたいに、そっとそっと、大切に腕の中で守って。
そっと、その金の髪を撫でて。
「大丈夫だよ、眠って、兄さん。怖い夢なんか見ないよ、ずっと、抱っこしててあげるから大丈夫だよ。眠ってよ、兄さん」
小さな声で話しかけて、やさしく感じられるような加減でそっと、髪を撫でて。
どうか、兄さんにやさしい夜を。
どうか兄さんに、安らかな眠りを。
罪を犯した僕たちの願いなんか、神様は聞いてはくれないかもしれないけどそれでも、祈るように僕はそればかりを想って。
輝きを失った金色が力尽きるようにようやく、かさついてしまった瞼を閉ざして、気絶するみたいに兄さんが眠りに落ちる。
兄さんを守りたいと想った。
兄さんの安らぎになりたいと思った。
格好良くて憧れていた兄さんの、こんな衰弱しきった姿を見るのが辛くて、悲しくて。
だから僕は、強くならなきゃいけないと思った。
僕が今の自分をちゃんと受け入れないと、兄さんが安心できるはずがないから。
僕がちゃんと大丈夫でいないと、兄さんが辛い思いをするから。
大切な兄さんに、これ以上つらい思いなんかして欲しくないから。
だから僕は、大丈夫にならないと。大丈夫でいないと。
僕が僕を受け入れて、今の状況を理解して、今の僕に出来ること出来ないことをちゃんと知って。
僕がちゃんと大丈夫でいれば、きっと兄さんも少しずつでも安心できると思うから。
手を伸ばした先は真っ暗闇で先なんか光なんか見えないけど、それでも。
強くなりたいから。兄さんを守りたいから。
先なんか見えないけどそれでも、僕には兄さんが大切だから。
生きているのだから、立ち止まっていたらどこへも行けないから。
兄さんが静かに寝息を立て始める。
スープもほとんど飲んでくれなかった。少しずつ口に流し込んでも飲み下さずに口の端からこぼれて。
せいぜい小さなスプーンにひと口かふた口。たったそれだけじゃ栄養も水分も足りなくて。
困り果てた僕は悲しくて、だけど諦めてしまうことだけは絶対に出来なくて。
ピナコばっちゃんが、薬品の乗ったワゴンを音を立てないように静かに運んできた。
「アル、エドをベッドに寝かしとくれ」
そう言って、点滴の用意を始める。
痩せ細った腕に太い針が刺されて命がつながれる。
ブドウ糖と生理食塩水と、ビタミン剤・・・・・・心臓が鼓動を刻むリズムでそれは兄さんの命をつなぐ。
ああ、早く、スープを飲んで欲しいな。
僕の手からスープを飲んで、お腹いっぱいになってとろとろと眠って、やさしい夢を見て。
怖い夢は追い払ってあげたいよ。
僕が守ってあげるから、だから、僕を呼んで笑って。
アルって呼んで、笑って。
いつもみたいに、元気に。
ねぇ、僕も、強くなるから。
「さて、と。アル、下に降りるよ。晩酌に付き合っとくれ」
兄さんの傍を離れることを躊躇う僕の手を引いて、ばっちゃんが言う。
大丈夫さと、体が疲れ切っているから眠っちまえばすぐには起きられないよ、と、いつもみたいに口の端をあげてにやりと笑って。
お医者さんでもあるばっちゃんがそう言うのならきっと平気なんだと、僕はその小さな背中のあとに続いた。
僕たちはまだ子供だったからお酒なんか飲んだことはなかったし、酒場に入ったこともなかった。
母さんはお酒を飲まなかったし父さんは・・・・・・ばっちゃんの飲み友達だったらしいけど、僕が物心ついたころにはもう、家にはいなかった。
ばっちゃんがお酒を飲むのは僕らが夕食を終えて家に帰って、ウィンリィが眠ってからだったんだろう。お酒を飲んでいるところはあまり見たことがなかったけど、キッチンの隅に空の酒瓶が置いてある光景だけはよく見かけた。
僕たちはまだまだ子供だったから。
だから今、お酒を飲んでいるばっちゃんの向かいに座って、僕はなんだかドキドキした。
この鎧の体はからっぽで心臓がないのだから本当にドキドキと音がするわけじゃないけど、でも、なんて言ったらいいのか判らないけど、ドキドキした。
一人前の大人として扱われているような気がした。
「こんなふうに、晩酌に相手がいるなんて何年ぶりだろうねぇ」
そう笑ってグラスを開ける。
「おっと、干しちまったね。アル、注いどくれよ」
言われて僕は、そっと瓶の中のぶどう酒をばっちゃんのグラスにそそぐ。溢さないように気をつけながら。
「そうそう、上手いもんだ。お前はもともと器用だったけどね、まったく呑み込みが早い。たいしたもんだよ」
ばっちゃんが、何を言っているのかが、解った。
うん、2〜3日前の僕ならこのボトルも握りつぶしていたかも知れないね、ちから加減が判らなくて思い切り握ってしまって。
そうして僕は解ってしまった。
昼間はずっと、ウィンリィが兄さんの包帯を変えたり料理を作ったりしていた。
ばっちゃんは?と僕が聞くと、昼寝中だと笑っていた。
きっと、たぶん。
誰もが寝静まった夜に僕が闇におびえないように。
僕が闇に囚われてしまわないように、僕を一人にしないように。
僕が絶望してしまわないように。
「あのね、ばっちゃん・・・・・・僕、思ったんだ」
先が見えなくて怖いけど、触ったものの感触とか温度とかがわからない体は正直言うと辛いけど眠ることの出来ない夜はやっぱり怖いけど。
僕は、昼間考えていたことをばっちゃんに話した。
上手に言い表せないけど、少しずつ、ゆっくりと。そしてそれをばっちゃんは急かしたりしないで僕の言葉を頷きながら全部聞いてくれて。
ちゃんと、僕の言葉を受け止めてくれるから、僕は安心して話をすることが出来て。
だから僕も、兄さんに安心して頼ってもらえるようになりたいって。
その為には僕が僕をちゃんと理解して、今の僕を受け入れなくちゃならないって。
そうでないと兄さんを安心させてあげられないからって。
怖いけど、自分の存在が不確かで、とてもとても怖いけどその気持ちに嘘はつけないけど、僕には兄さんが大切で、とてもとても大切で、また元通り笑って欲しくて守りたくて。
そのために僕は強くなりたくて。その気持ちも本当で、その気持ちのほうが恐怖心よりもずっとずっと強いから。
そう、ばっちゃんに話した。
僕の中の決心も、恐怖心も、全部。
驚いたような安心したような満足げな顔でばっちゃんが頷いて。
「そうかい・・・・・・お前は、頼もしくなったもんだね」
そう言って、笑った。
安心したように笑って、それから、真顔になった。
真顔になって、まっすぐに僕を見上げた。重々しく口を開いた。
「いいかい、アルフォンス。よくお聞き」
お酒の入ったグラスをコトリと置いて。
「この先、どこへ行っても誰に会っても、お前を子供として扱ってくれる人はいないだろう。私たちはお前がたった10歳の子供だと知っているけど、余所の人には判らない」
「うん」
「人体練成は禁じられた業だ、そのためにその身体になったとは誰にも言えない。外に出てしまえばお前は大人として認識されるだろう。その姿を不審に思うものもいるかもしれない。辛くても困っても、自分で判断することを要求される」
「・・・・・・うん」
子供の僕が思うよりも、もっとずっと大変なことなのかもしれない。
提示された‘覚悟’はずっしりと重くて厳しい。
「お前たちはここで、ひっそり暮らすことも出来るんだよ?」
でも、それでも僕は・・・・・・。
「強く、なりたいんだ。兄さんに笑って欲しいんだ。今までどおり、笑って欲しいんだ。そのためには僕が今の僕を認めてしっかりしなきゃならないんだ」
でも、ちょっと挫けそうなときには話を聞いてね、と言うとばっちゃんは、任しておきな、と破顔した。皺だらけの目じりがちょっと濡れているように見えた。
「寝てるね、エド」
「うん。兄さん、だいぶ落ち着いてきたみたい」
眠っている兄さんを腕の中に抱っこしたまま、僕とウィンリィはひそひそと話す。
ウィンリィが絞ってくれたタオルでそっと兄さんの顔を拭いて。
時には兄さんをベッドに寝かせて僕が自分でタオルを絞って。その絞り加減や力加減を覚えるのにずっと、ウィンリィやばっちゃんが付き合ってくれて、今はもう完璧だ。
僕は僕に出来ることを覚えて、出来ないことをいくつか知った。
重さを感じることがないから力仕事は苦にならない。
熱さや冷たさが判らないから、兄さんに飲ませるスープの温度はウィンリィやばっちゃんにみてもらうしかない。
今も、適温のお湯を洗面器に張って来てくれたウィンリィにありがとうと言って、兄さんの身体をきれいにしてあげて。
もう少し疵が癒えたらお風呂に入れてあげようとウィンリィと話して。
「エド、赤ちゃんみたい。スープ飲ませてもらって、お腹いっぱいになって寝ちゃって」
「うん」
兄さんは、ちゃんとスープも飲めるようになっていた。スプーンを口元に持っていけば口を開くし、流し込んでもちゃんと飲み込んで吐き出さなくなった。
先の見えない暗闇が、ようやく少し白んできた。
まだ、呼びかけても兄さんの反応は薄いし僕の名前を呼んではくれないけど。
それでも時々僕の顔を見上げて、僕の腕の中で安心したように眠りに落ちる。
それは仕方がない。兄さんが負った心の傷は、体の怪我の僕には計り知れない痛みを伴って兄さんを追い詰めて。
ゆっくりでいい、ゆっくりと僕らの世界の夜が明けてゆっくりと朝を迎えればいい。
僕が守るから、兄さんのことは僕が守るから。
ゆっくりでいいよ。
だから兄さんは安心してその疵を癒して、いつかまた僕の名前を呼んで笑って。
願いをこめて、僕は兄さんの髪を撫でた。そっと、起こさないように。
僕たちを見て、ウィンリィが静かに笑った。
その数日後、青い軍服を着た大人がやってきて僕らの窓を開け放つ。
そこに、道があることを僕らに教えて。
そうして僕らは歩き出す。
踏み出した足元から、道はまたまっすぐに伸びるのだと知ることになる。
でもまだそれは、もう少しだけ先の話。
真っ暗闇の夜でもいつかは明けるのだと知ったばかりの僕らの話。
END