『 その掌 』
呼ばれて振り向きその大きな掌に大事そうに守るように乗せられたそれを見て、俺は小さく溜息をついた。
昨夜から降り続いている霧のような雨にじっとり濡れた瀕死の子猫。細く速い吐息、浅く上下する弱々しいからだ。このまま放っておけばおそらく明日の朝までどころか、あと1時間だって生きられまい。
さすがに、それを元のところに戻してこいとは俺にも言えなかった。
「そこの路地に横たわってて・・・・・・ごめんなさい、どうしても放っておけなかった」
「あぁ・・・・・・。とにかく、もう少し火の近くに寄ってやれ。今、タオル出すから」
けれど、それで命が取り留められるようには思えなくて。
「ありがとう、兄さん」
トランクを開けてタオルを出す。鉛を飲み込んだように、胸の中が重く沈む。
尽きかけようとしている命と向き合う勇気が、俺には、ない。
‘死’を‘喪失’を認められない。受け入れる勇気がない。そのせいで罪を犯したあの頃から、俺は何も変わっていない。
乾いた清潔なタオルを持って、ストーブのそばで胡坐をかいているアルフォンスの元へ戻る。手渡すと、その鞣革に包まれた大きな手は子猫の体から丁寧に水気を拭い去ってゆく。
奪うことなら造作もないだろうその大きく力強い手で、繊細に、やさしく。なにも奪うことなく。その加減を弟が覚えこむのに、一体どれほどの努力をしただのろう。
そうして子猫の灰色の毛がふわりと立ちあがった。
俺たちは新しくてふかふかのタオルに子猫をくるみなおす。子猫が小さく口を開けた。『にゃぁ』と言うように、声もなく。
「・・・・・・兄さん、お願いがあるんだけど」
「何だ?」
「ミルク、買ってきたんだけど温めてもらえないかな?人肌くらいでいいんだけど、僕じゃぁ、温度まではわからないから」
「ああ、いいぞ。ちょっと待ってろ」
躊躇うようにアルが言うのに、俺は静かに笑って立ちあがった。その鎧の肩をポンポンと叩いて。
気にしなくていいんだよ、アル。
弟は、自分に感覚がないことを俺になるべく意識させないように気を使ってくれている。
眠りの訪れない身体。
水分や食物を摂取する必要のない身体。
触ったものの硬さもやわらかさも熱さも冷たさも解らない身体。
弟をそんな身体にしてしまったことを知ったあの頃の俺が、その衝撃に耐えられずに、壊れかけてしまったから。
その頃のことはぼんやりとして俺にはあまり記憶がない。
ただ、世界が遠くて、分厚い磨りガラスの向こうから俺の名前を呼ぶ声だけがかすかに聞こえていただけ。差し伸べられた掌が、かすんで見えていただけ。
今はもう知っている。
あれが、アルフォンスの手だったのだと声だったのだ、と。
宿の自室に設えられた簡素なキッチン。生身の左手で、鍋の中のミルクが冷たくも熱くもないことを確認して、俺は小さな皿にそれを移した。
自分では決して飲みたくないそれも、自分の口に入るのでなければ何の感慨もない。
「ほらアル、できたぞ」
「うん。ありがとう」
でも、どうなるというのだろう。この子猫にミルクを飲むだけの余力が気力があるとも思えない。
「・・・・・・飲める、のか?」
「がんばってみるよ、最後まで。もし、それでダメでも・・・・・・ちゃんと見送ってあげたい。一人ぼっちで死んじゃうのは、寂しいでしょ」
‘死’の気配にも臆病な俺と違って、アルフォンスは‘命’ときちんと向き合っている。
なら、俺が死ぬときも、最後までそばに居てくれるだろうか。終わりをちゃんと見届けてくれるだろうか。
そんなことを考えていたら、頭をそっと抱き寄せられた。子猫を抱いているのとは反対の手で。
頬を寄せたその鋼鉄の胸はストーブに当たり続けているからか、ほんのりと暖かい。
大きな手が髪を撫でる。
まるで俺の心を見透かしているみたいに。
不安にならなくていい、何も心配要らない、と、いうみたいに。なにも言わずに。
それから、アルは予備に出しておいたタオルの端にミルクを吸い込ませて、子猫の口の端から雫をたらした。少し、ミルクが入ると、子猫の喉をそっと胸のほうに向けて撫で下ろす。
そっと、やさしく。
二度、それを吐き出した。もうダメなのだと、俺は思った。
けれどアルフォンスは諦めずに、三たびミルクを子猫の口に注ぎ、同じように喉を撫でる。
子猫の喉が、かすかに、上下した。
子猫はまた声もなく『にゃぁ』と口を開ける。ミルクを催促しているように見えた。
アルが、微笑んだ気配がした。
タオルにまたミルクを吸わせる。口元へ持っていくと、子猫は、弱々しいながらもきちんとそれに吸い付いた。前足を交互に、何かを踏みしめるように動かしている。
「この子、お母さん猫のおっぱい探してるよ」
静かに笑い声を立ててアルフォンスが俺のほうを向く。
「ああ・・・・・・」
この小さな命はまだ、生きることを諦めてはいない。
俺の心の中に、なにか、やさしくて強いものが、そっと落ちた。
そこからの回復は予想したよりも早くて、翌朝にはちゃんと声を出して鳴いた。
「みゃぁ」
「いま、ミルク温めてるからちょっと待ってろ」
寝床に使った小箱から、出てくるまでとはいかないけれども。それでもよろよろとおぼつかない足で立っている。
「みゃーぅ」
「だから、待てって言ってるだろう」
猫と会話しているような俺たちのやり取りに、アルが笑う。
「ほらアル、後は頼んだ」
夜半に、俺も何度かチャレンジしたけれどなかなか上手くミルクを与えてやることができなくて、食餌についてはアルにすっかり任せることにした。弟は慣れた手つきで器用にミルクを与えてゆく。
「上手いもんだな」
「まぁね。さんざん経験積ませて頂きマシタから」
アルが笑い声を立てる。その声はひどくやさしい。
「今だから笑って話せるけどね。あの頃・・・・・・兄さんは寝ないし食べないし話しかけても反応が薄いし。困り果てて泣きそうだったよ」
ミルクをやる手を止めて、俺の前髪をくしゃりと撫でる。
『兄さん、お願いだから食べてよ・・・・・・食べないと死んじゃうよ』
遠くぼやけて、必死な声が耳に返る。暗い闇の中、にじんだガラス越しのぼんやりした光の中から聞こえていた、声。
『大丈夫だよ、眠っても何も悪いことなんか起こらないよ、傍に居るから、大丈夫だから。ね、おやすみ、兄さん』
髪や頬を撫でられていたような、なにか柔らかなものに包まれていたような感覚はうろ覚えに、あった。
「最初は、兄さんに触るのも怖くて。壊しちゃいそうで、怖かったけど、ばっちゃんやウィンリィが練習に付き合ってくれてさ。僕に兄さんの世話を任せてくれて、僕に、触ってやれって言ってくれて」
もう、その話をしても大丈夫でしょうと、アルフォンスが笑う。俺が張り詰めていた頃には決して言えなかったのだと。俺が、その腕の中でゆっくりと息をすることを覚えたから・・・・・・。
「スープを飲まそうとしてもなかなか口を開けてくれないし、最初のうちは飲み込んでもすぐに吐いちゃうし。途方にくれて、ずっと抱っこしてもし兄さんがこのまま壊れちゃったら僕はどうなるんだろうって怖くなって。ウィンリィに殴られて」
くすくすと笑って。
「‘あんたがそんなことでどうするの!’ってすごい剣幕だったなぁ」
遠い昔を思い出すようにアルが語る。俺の髪を撫でる手が『もう、大丈夫だね』といっている。温度がなくてもそれだけはわかる。
「だから、兄さんがちゃんと食べるようになって、僕の名前を呼んでくれたときは嬉しかったな。それでもしばらくはなかなか眠ろうとしなくて、身体は限界なのに目の下くまだらけにして僕の手を放さなくて」
「ずっと、髪を撫でてくれてたのは、なんとなく覚えてる」
アルの、優しいその掌が、俺を生かしてくれた。
「うん。元気になってくれてよかった。・・・・・・だからね、兄さん、簡単に諦めちゃダメだよ。生きることを簡単に諦めちゃ、ダメだよ」
傷の男との時のことを言っているのはすぐにわかった。あの時、アルに殴られてさんざん怒られた。
アルの手が、諦めずに繋いでくれた命ならもう、簡単には投げ出せない。
「もう、しないよ。約束する」
「うん。お願いだからね」
アルの膝の上で子猫が鳴いた。ミルクをもっと飲ませろと催促をしている。
俺たちはその小さな命の強かさに喜び、笑った。
子猫はすっかり満腹になってすやすやと眠っている。
俺たちはその合間に、新しいミルクを買いに出かけた。最初に買ってきたのは一番小さな瓶だった。最後まで諦めないとはいっても、どこまで持ちこたえてくれるか分からなかったから・・・・・・と。
でももう、大丈夫だろう。子猫はちゃんと回復している。
「元気になったら、里親探さないとね」
あれほど猫が飼いたいと騒いでいたアルフォンスがそんなことを言うので少し驚いた。
‘命’に対する責任というものを理解してくれたのかと、ちょっと感心した。
食料品店で少し大きめのミルクを買って帰る途中、アルフォンスは表通りから少しはなれた細い路地裏を指差して、あのあたりに子猫が横たわっていたのだと言った。
路地に近づくと、何かに呼びかけるような子供の声が聞こえた。
「ネコちゃん、ネコちゃーん!」
一歩近づくごとに、その声はほとんど泣き声に近くなっていく。
猫、と聞いて、俺たちは顔を見合わせて駆け出した。
先刻アルが指し示した路地から声は聞こえる。角を曲がると、そこには若い夫婦らしい二人の男女と彼らの娘なのだろう小さな女の子が、ゴミバケツのふたを開けたり建物と建物の間の隙間や階段の裏を覗き込んだりしていた。
「あのう、すいません」
俺が声をかけるよりも早く、アルがその男女に声をかける。
「もしかして、探しているのは灰色の子猫ですか?シッポの先に、少しだけ縞のある」
その人たちは、一瞬、全身甲冑姿のアルフォンスに驚いたようだったけれど、でも、すぐに返事を返した。
「ええ、娘はそう言っているのですが・・・・・・」
「灰色の子ネコちゃん!?お兄ちゃんたち、ネコちゃん知っているの?」
べそをかきながら建物の隙間を覗いていた女の子が慌てて駆け寄って来た。その顔がぱあっと輝く。
「うん、ネコちゃんは僕たちが預かっているよ」
「わぁい、よかった!」
「ミルクを買いに来ていたんだ。ネコちゃんは宿で眠ってるよ」
何の警戒も見せずに女の子がアルに話しかけるのを見て、男の人が口を開いた。
「どうも、3日くらい前からここに居たらしいんです。娘はそれを見つけてこっそりパンなどを運んでいたようなんですが、食べなかったと言っていました」
「そうでしょうね。まだ、本当に小さくて、離乳がすんでいないんだと思います。僕が見つけたときには衰弱しきっていて、正直、よく助かってくれたなって思います」
「そうですか・・・・・・良かった。娘はなかなか言い出せなかったみたいで、実は子猫の話を聞いたのはついさっきなんですよ。それで慌てて妻も連れて探しに来て」
どうやらいい人らしい。気持ちが通じたみたいに、アルが俺の顔を見た。俺はそれにうなずきを返す。
「実は、僕たち旅の途中で、またすぐにここを離れなければならないんです。それで、子猫を飼ってくれる人を探しているんですけど・・・・・・その、お宅で飼うことはできませんか?」
「ええ、喜んで!そのつもりで探しに来ていました。それに、娘には命の尊さを知ってほしいし優しい子に育ってもらいたい。何より、私も幼い頃はずっと、何かしら動物と一緒に暮らしていましたから」
そう言って、男の人が笑った。その奥さんも、女の子も花が咲いたような笑顔を満面に浮かべている。
子猫が回復するのを待ってから引き渡すと約束をして、俺たちは別れの挨拶をした。
女の子が俺たちの前に進み出る。最初にその子はアルフォンスを見上げた。
「大きいお兄ちゃん、ありがとう!小さいお兄ちゃんもありがとう!ネコちゃんによろしくね!」
手を振りながら去っていく背中を見送る。
「・・・・・・アル、笑うな」
「え?別に何も言ってないでしょ?」
確かにアルが言うとおり、笑い声は立てていない。
でも、俺にはわかる。俺だからわかる。
「いいや、お前、今確かに笑ってた」
「あはは、気のせいだよ。気のせい」
「すっとぼけんな、コラ!」
「あははははは」
笑いながら宿へと向かう。歩きながら、その大きな掌を盗み見る。
壊れかけていた俺をうつつに繋ぎとめて。子猫の命をこの世に繋ぎとめて。
アルの手は与えるものの手。傷ついたものを癒す手。心を命を繋ぎとめる、手。
やさしくて力強い、その掌に俺は生かされて愛されて。
アルフォンスとともに生きる喜びをまた、心の中に育てて。
身体中を満たすその幸せを・・・・・・俺はまたゆっくりと食み返した。
END