『それでも、前を向いて』





いくつも旅を繰り返して、その度にまた、途方にくれる。
『次こそは、今度こそは』
何度も何度も落胆して、絶望を味わって、己の非力さを思い知らされて。
それでも、この旅だけは止めるわけにはいかない。
自分のエゴのせいで肉体を失わせてしまった―――大切な弟のために。


 むっとするような熱気が身体に纏わりつく。空気が湿り気を帯びて、息を深く継ぐこともままならない。
 丈の低い草ばかりが生い茂る果ての無い平原。見渡す限り山や森などの木立など影も形も無くただまっすぐに伸びる、轍の深い土くれの道。
(それでも・・・・・・)
 鉛のように重い足は疲弊して尚、迷うことなく前へ前へとその歩みを進める。
 自分の後ろに、道があるということさえ、知らないかのように。
(早く・・・一日でも早く)
――――弟を、あるべき姿に戻すために――――
 それだけが望みであり原動力なのだから。
「兄さん、だめだ、さっきの村に引き返そう」
 エドワードを見下ろす大柄な鎧から、不釣合いな子供の声が固く響いた。
「なんだよ、アル。ここまで来て、どうして」
(早く。一日でも早く・・・・・・)
「ほら、南の方に雨雲が見えるでしょう。かなりの勢いでこっちに流れて来る」
 弟の、なめし皮に包まれた鎧の指が示す先、自分たちがまさに向かおうとしていた町の方角には確かに暗雲が立ち込めていた。それも、時折青白い光を放っている。雷雨が訪れるであろう事は容易に想像できた。
「でも、せっかくここまで来たのに・・・っ」
「まだ五分の二程度だよ。それにこの先、目的地までは雨宿りできそうなところは無いみたいだし。今からなら、急げばそれほど濡れずに戻れるよ。だから、ね、兄さん?」
 悔しそうに歯噛みするエドワードの背を無骨で冷たい甲冑が、やさしく促す。
(一歩でも前に、進みたいのに)
「まったくもぅ、負けず嫌いなんだから」
 仕方の無い子供をあやすようにクスクスとアルフォンスが笑う。肩を竦めるようにして。表情など無いはずの空洞の鎧は、けれど驚くほど豊かな感情表現をしてみせる。
 時に、彼の姿が青銅色の鎧であることすら忘れてしまいそうになるほど。
 それはおそらくエドワードの為に。兄に、気持ちを伝えるために。
――――エドワードが彼の姿に罪悪感を抱かないように――――。
「ほら、急がないと濡れ鼠になっちゃうよ」
 そう言われて、諦めて、踵を返す。
(後戻りしている時間なんて無いのに)
 けれど、雨に濡れされるわけにはいかない。鋼で出来たアルフォンスの身体は水気を嫌う。その魂を繋ぎ止める大切な血印を守り抜いたとしても、内部の奥深くまで水が入って、ふき取りが完璧に出来なかったりしたら―――。
 濡れ鼠になるほどの雨に打たれたりしたら・・・・・・。
 
(錆びてしまう)
 生身の身体であれば、決して起こり得ない現象。
 弟の身体をそんなにしてしまったのは、紛れもないこの自分。

「風邪なんかひいたら大変だよ。兄さん、ただでさえ研究に熱中すると寝ることも食べることも忘れちゃうんだから。もっと自分の体のことも考えてよね」
 この優しさが。弟のこんな温かな言葉が・・・・・・。
 心をあたたかく満たし、同時にきつく締め付ける。
 いっそ憎んでくれればいいのに、と、思う。
 だのに憎まれたら生きていかれない、と、思う。
 相反する感情はエドワードの中で出口も無く渦巻く。赦されたいと願い、憎まれることに怯え、それでも、弟の手に断罪を望んでいる自分がいる。
 混沌に呑まれて溺れ、動けないエドワードの生身の左手をアルフォンスの大きな手が包み込む。
「熱を出したりしたら、また何日も動けない。兄さん、これは後戻りじゃない。僕らが前に進むための、大切な一歩だよ。少しくらい遠回りをしたって、僕等は必ずたどり着く。なくしたものを取り戻す。大丈夫、兄さんには、僕たちには必ず出来る」
 だから、さぁ、行こう。
 無表情な鋼の仮面が、それでも確かに微笑んだ。
「そうだな・・・・・・。立ち止まってる暇なんか、もったいないよな」
「でも、ホント言うと兄さんはもう少し位休んだほうがいいんだけどね」
 茶化すように言って、鎧のアルフォンスは空を仰いだ。
 鉛色の雲はその形を変えながら近づいてきている。
「あっほら、兄さんがごねてる間に雨雲が近づいてきちゃったよ」
「げっ、ヤバ・・・・・・」
「仕方ない。兄さん、落っこちないようにしっかり捕まっててよ!」
 言うなり、旅行鞄ごとエドワードの小柄な身体を担ぎ上げ、アルフォンスは走り出した。数時間前に通り過ぎた、小さな村に向かって。
 (後戻りじゃない。前に進むための一歩・・・・・・)
 一日だって早く、元の身体を取り戻したいだろうに、こんな自分を気遣ってくれて。
 風が雨のにおいを連れてくるのをエドワードは嗅ぎ取る。
 子供の頃、そのどこか埃くさいような雨の香りを敏感に察して家へ帰ろうとこの手を引いた弟は、今はそれをかぎ分けることも出来ない。
 それでも、彼の持ちうる感覚である視覚、そして聴覚を余さず使って、今でも自分の手を引いてくれる。護ってくれる。
 胸が熱くて、こみ上げてくるものに逆らえなくて、エドワードはひんやりとした弟の、鋼の首にしがみついた。
 俺を赦して。だけどその手で、俺を罰して。
 頬を伝った涙が、アルフォンスの肩に落ちる。
 それを感じることの無い鋼鉄の身体に、このときばかりは感謝しながら。

              

                       END