『floriate』
柔らかな葉を透かして光が差す明るい森。
ほんの半時ほど前まで確かにたどっていた道はいつの間にか途絶え、かなり低い位置に獣道の痕跡がかろうじて見えている。
光が差し込むということは下生えの草木の生育も良いということで、僕らは藪を漕ぐようにして森の中を進んでいた。
「ちょっ・・・・・兄さん!僕が前を歩くってば。後ろを歩いてよ、傷だらけになるよ!」
呼びかけても兄さんは決して僕の後ろに回ろうとしない。さっきからずっとこうだ。
理由は解っている。
昨日借りて帰った本を明け方近くまで読んでいた。寝過ごした挙句に図書館での返却に手間取ってしまい15時の汽車に間に合わず、森を真っ直ぐに抜ければ次の町までは日が落ちるまでに到着できるだろうとあまりにも兄さんらしい見切り発車で出発。真っ直ぐ進んでいた筈がどこでどう道を間違えたものやら、この通り立派な迷子になっている。
それが気まずいのに違いない。兄さんは僕が言うのもお構いなしにずんずんと藪に分け入って行く。兄としての面目にこだわっているのかもしれないけど、でも、僕は兄さんに怪我なんかして欲しくない。たとえ、それがどんなに小さな傷でも。
そして今まさに兄さんが手を掛けたその低木に無数の小さなトゲが見えて、僕は慌てて兄さんの腰を引き寄せた。
僕の腰の辺りで、兄さんが宙ぶらりんになっている。赤い頬を膨らませて僕を見上げ、にらんでいる。
そんな顔したって、可愛いだけなのに。
兄さんは僕がそんなこをと思っているなんて知らない。僕も言うつもりはない。怒るだろうし、理解できないだろうし。
僕が兄さんに恋しているなんて、理解できないだろうし思いもよらないだろうし怖くて伝えられないし。伝えてしまってギクシャクしたくなんか、ないし。
だから、今のこの状態はかなり夢のよう。
「・・・・・・なんだよ、アル」
「兄さん、ちゃんと前見てる?トゲだらけだよこの木。引っ掻き傷だらけになっちゃうよ」
名残惜しいけどそっと兄さんを地面に降ろし、あまり詰まっていなさそうな茂みのほうへと兄さんを促した。
馬鹿にするなとか言ってもっと抵抗するかと思ったけど、意外にも兄さんはおとなしく手を引かれている。俯いた頬がまだ赤い。
頬骨の辺りに小さな傷。あとで、消毒してあげないと。
兄さんを背中に庇うようにして、僕はゆっくりと先へ進んだ。
日が傾き夕日が差し、青々といていた周りの木々がオレンジ色に染まってゆく。
キラキラとちりばめるような光を見た気がして、僕は目の前の藪を大きく分けた。
夕日を映して輝く湖面。手前には一面の花畑。僕の斜め後ろで、兄さんが、虚を衝かれた顔でその景色を眺めていた。
ああ、僕らはいつも旅を急ぎすぎている。
疲れることのない僕はいいけど兄さんには休養が必要だ。身体にも、心にも。
こんな綺麗な景色を見て、花の香りに癒されて。
「せっかく藪を抜けられたんだし、ちょっとここで休んでいこうよ」
「でも、もうすぐ日が暮れるぞ」
「なら、良いじゃない?こんなお花畑で野宿なんていうのも」
複雑そうな顔で、兄さんが僕を見上げる。そして、視線が僕の手元に降りた。
意識してなくてすっかり忘れていた。まだ、僕は兄さんの手を握ったままだった。
兄さんの、生身の左手を。
「子供のころみたいだね、兄さんと手を繋いで歩くなんて」
慌てたけど努めてそっと、手を離す。
「あぁ・・・・・・そうだな」
「昔はよく兄さんと僕とウィンリィの3人で手を繋いだりしたよね」
「ああ、それで一人が転ぶと一蓮托生で3人とも転んだよな」
「懐かしいね」
兄さんが、思い出を食み返すような顔をする。その横顔を夕日が照らして、とても綺麗で幸せな気持ちになる。
「お前は昔から可愛いものとか、綺麗な花とか好きだったよな」
「うん。今でもそうだよ」
「変わらねぇな」
「そうだね、変わらない」
僕たちは笑って、花畑にぽっかりと空いた草むらに腰を降ろした。
夕日の色をしていると思った花は近くで見ると淡い桃色で、その薄い花弁が白っぽく透けてとても綺麗だった。
「ねぇ兄さん。この花、どんな香りがする?」
手元の花を1本手折り兄さんの顔に近づけると、まるで調香するみたいに鼻を寄せては考え込む顔をする。
「うーん、そうだな・・・・・・そんなに香りは強くない。甘い・・・昔ほら、母さんがよく作ってくれたりんごを甘く煮たのを薄めたみたいな香りかな・・・・・うん、あんな感じだな」
触覚や嗅覚のない僕がかつて体験してきたことの中から譬えを探しだして、兄さんは出来るだけ僕にも解り易いようにと記憶をたどり、言葉を表現を選んでくれる。だからちゃんと、僕にも解る。鼻腔に残るりんごの香りの記憶はもう、すこし遠くなってしまったけど。
「ああ、あの温かい?あんな感じなんだ。解ったよ、ありがとう、兄さん」
「いいって。オニイチャンに何でも聞きなさい」
そう言って二カッと兄さんが笑う。その髪は先刻のやぶ抜けでほつれ、葉っぱが絡み付いたりしている。
「兄さん、髪の毛くしゃくしゃだよ。むこう向いて。編み直してあげるから」
「そんなにくしゃくしゃか?」
「うん。葉っぱもたくさんひっからがってるよ」
「なら、頼むわ」
兄さんはトランクからブラシを出して寄越すと、僕にその小さな背を向けて座った。
絡まっているところを丁寧にほぐし、木の葉や細かい樹皮などを取り去って行く。そうしてやっとブラシをいれて梳いてゆく。
綺麗な金色の髪。大切に大切に触れる。こんなふうに野宿をしたり砂地を歩いたり、特別手入れをするわけでもないのに痛んでいる様子のまるで見えない、兄さんの綺麗な髪。
心地良さ気に僕に髪を預けたまま、兄さんは静かに目を閉じている。夕日がその頬をオレンジ色に染める。
きれいだな。とても、きれいだな。
手元に咲いていた花を摘んで、僕は兄さんの髪に編みこんだ。
ひとつ、またひとつと金の髪に花飾りを施してゆく。
綺麗で可愛くて、僕はなんだか嬉しくなった。
「できたよ、兄さん」
声を掛けると兄さんは僕を振り返ろうとして・・・・・・異変に気付いた。
「アル、お前、何をした?」
頭に触ろうとした手を慌てて押さえて、僕は冗談を言うみたいに笑った。
「ダメだよ兄さん。お花、崩れちゃうじゃないか」
「花って、お前・・・・・・喜劇役者じゃないんだから。ほら、遊んでないで早く取れ」
「えぇ、もったいないよ!せっかく可愛いのに」
顔を赤くして、訳が解らないという表情で、兄さんが僕を見上げる。
「お前・・・・・・何言ってんの?」
冗談めかした言葉の一片にほんの少しずつ、伝えられない気持ちを織り込む。
「だって、可愛いから。花嫁さんみたいで、凄く可愛い」
兄さんはパッと立ち上がり、水辺に向かって駆けだした。
たくさんの花で飾った三つ編みがぽふぽふと跳ねる。ぼくはその後をゆっくりと追いかける。
大切にするから。僕のすべてを懸けてあなたを守るから。
だからどうか、あなたの全てを僕にください。未来まで全部、僕にください。
兄さんの背中を見ながら、口には出せない想いをそっと僕の中に閉じ込める。
湖面を覗きこんでいた兄さんが顔を上げて振り返る。
「ね?可愛いでしょ?」
「お前それ、本気で言ってる?」
「モチロンだよ!花嫁さんみたいで可愛い」
「よーし、俺はしっかり聞いたからな」
兄さんは水際の大きな石の上に腕を組んで立つと、僕を手招きした。
「良いだろう。俺がお前の嫁さんになってやる。その代わり浮気はぜっったいに許さねぇぞ」
挑発的な高飛車な顔で兄さんが笑う。兄さんが一番魅力的に見える顔。冗談に付き合ってくれているんだろう、ノリが良くて嬉しくなってしまう。
たとえこんなお遊びでも、今の言葉は宝物だよ。
「浮気なんてイタシマセン。僕は一途ですから」
笑いながら、僕も答える。
本当だったらいいのに。本当だったらいいのに。お遊びだって、こんなに幸せなのに。
「よし、じゃぁ屈め。アルフォンス」
「こう?・・・・・それで、何?」
「ばぁか。'誓いのキス'に決まってんだろ?」
ほんの一瞬、まるで幸せな本物の花嫁さんみたいな顔で笑って、驚いて固まっている僕の鎧の面の口元辺りにキスをした。
何が起こったのか、有りもしない神経回路が繋がらなくてどうリアクションすればいいのかも解らなくて。
そんな僕を置いて、兄さんがまたパタパタと背中を向けて走り出す。
金縛りにあったみたいに動けない僕に、大きな声で、兄さんが笑って。
「今更'冗談でした'なんて言ったって聞いてやらねぇからな!」
そうしてまた、駆け出した。
そんなこと言うと、本気にしちゃうよ、期待しちゃうよ。
ねぇ、兄さん、本気にしちゃってもいいの?喜んでもいいの?
教えてよ。ちゃんと、教えて。・・・・・・・ねえ、兄さん。
ようやく金縛りから開放されて、僕は兄さんの背中を追いかける。
もう、太陽はほとんど山の向こうに隠れて、空は低くグラデーションに染まる。
湖から吹いた風が、兄さんの髪と花たちをやさしく揺らした。
END