『この胸の宝』
(アル・・・・・・アルフォンス)
それは
決して失うことの出来ないたからものの名前
アルフォンス
その響きは
何にも負けない勇気をもたらし
この胸に暖かく軟らかな灯をともしてくれる
魔法の言葉
その名を呼べばどんなときでも幸せになれた
はずなのに
とくん、とくん。
その規則正しく打つ音を聞いて、オレはようやくつきまとう不安から解放された。
3度目の禁忌を犯してから2週間、もう何度もこうして弟の鼓動を聞いている。
とくん、とくん。
精神と肉体が同調する感覚が久しぶりでこの星の引力に負けそうだと笑う弟は、今日もまた疲れ果てて眠ってしまった。
とくん、とくん。
その胸から響く鼓動。
きちんと体温を持った、生身の肉体。規則正しい寝息。
ようやく取り戻すことの出来た、弟の、アルフォンスの生身の身体。
『兄さん』
オレを呼んで向けてくれる、清潔な、綺麗な笑顔。
幸せで、幸せで、幸せでいとしくて。
もう、ほかには何も、いらないのだと気付いた。
ほかにはだれも・・・・・・いらないのだと。
行動は荒っぽいくせに涙もろくて心優しい幼馴染、二人に帰る場所を与えてくれたばっちゃん、子供だったオレたちを見守り手を貸してくれた軍の連中、そして、まるで母さんのように深い瞳で暖かく厳しくオレたちを励まし鍛えてくれた師匠。
深く深く感謝している。
けれども今は、あの頃のように素直に笑えない。
誰がアルに微笑みかけても、誰の名前をアルが呼んでも。胸の奥を深く強く掻かれるような、名前の判らない感情が生まれる。
帰りたい。早く帰りたい。家へ、二人だけの家へ。
見るな、誰も見るな。アルの笑顔をその眼に焼き付けるな。
映すな。他の誰のこともその澄んだ瞳に映さないで、ただオレだけを見つめてくれ。
アル
アル
アル・・・・・・!!!
奥歯を喰いしばらなければ堪えきれない激情を封じ込め、身体の震えが収まるのを待った。
疲れて眠っているアルフォンスの寝顔を眺める。
ずっと見ていたい気持ちと、取り残されたような寂しさとを抱えて。
見つめていてくれたのだろうか。(オレの寝顔を?)
寂しいと、思ってくれていたんだろうか。(こんな風に、一人で?)
眠ることのできない鎧だった弟は、こんな夜に切なさを感じてくれていたんだろうか。
咽喉を塞ぐようなせつなさはいつも、規則正しい鼓動を聴けば幾分薄れた。
とくん、とくん、とくん。
生身の温かな身体。アルフォンスの、爽やかな風のような体臭。肉体が、時を刻む音。
とくん、とくん、とくん。
緊張した体が寂しさに強張った心が、ゆるゆると解れやわらかくなる。落ち着いてくると、自分の気持ちが少しずつ見えはじめる。
触れてほしい。(その温かな手で)
みつめてほしい。(オレと同じ、金の瞳で)
呼んでほしい。(鎧の頃より、少し大人になったその声で)
かつてのようなふれあいをアルフォンスがしてくれなくなったのが物足りなくて、なによりも心細い。
やさしいけれど、遠い。肉体を取り戻す前よりもずっと。
ふたりで旅を続けていた頃よりも、ずっと。
生身の肉体を全てを取り戻してしまいさえすれば後はもう、ただ幸せなのだと思っていた。何も疑いもせずにただ、幸せになるのだと。
朝も昼も夜も笑顔を交わして、たまにちょっとは喧嘩もしてまたすぐに仲直りして。
ときどき手を繋いでその手の温かさを確かめて、細胞の一つ一つが二十八日という周期で生まれてはその役割を終えてゆく生身の肉体を喜びとともに感じて。
どれほどの罪を負ってもアルフォンスさえ居てくれればそれで、ただしあわせになれるのだと信じていた。ただこの、弟さえ居てくれれば・・・・・・。
だのにどうしてこんなに遠く感じるのだろう。
誰よりも、そばに居て欲しいのに。
とくん、とくん、とくん。
布越しに触れる体温。規則正しい鼓動。幸せなはずなのに、寂しくて目頭が熱い。
とくん、とくん、とくん。
もう少しだけ聴いていたい。もう少しだけ、その熱を感じていたい。
もうすこしだけ・・・・・・・・・・。
『兄さん、にいさん』
優しい声が聞こえる。アルフォンスがオレを呼ぶ声。
その顔が見たいのに、身を寄せている温もりがあまりにも心地よくて目が開けられない。
「兄さん、起きなよ」
アルが呼んでる。目を覚まさないと。
穏やかな眠りにまた落ちてゆきそうな意識をなんとか浮上させて、ようやくまぶたを上げる。離れがたい温もりが、アルフォンスの身体だったと知り頬が緩んだ。
背中から肩へのあたたかな重みが気持ちいい。何だろうと思って視線を向ければ、弟の腕が背を包み込むように抱いてくれている。
うれしい。きもちいい。うれしい。
タンクトップから出たむき出しの肩をすっぽりと覆う掌の、直に触れた肌の感触が甘くて心地よくて融けてしまいそうに幸せで。
うれしくて、きもちよくて、うれしくて、もっともっとふれてほしくて。
こんな幸せな気持ちのまま眠れたら、もう嫌な夢なんか見ない。アルが誰か他の人の手をとって、どこか遠くへ行ってしまう夢なんか・・・・・・見なくても済む。
だからどうかその手を離さないで抱きしめていて幸せな夢だけ見させて。
祈るように甘えるように、その強い掌に頬を摺り寄せる。
「アル・・・・・・アルフォンス」
それは俺にとってこの世で一番の宝物の名前。
大切で大切でやさしくて美しい響き。
美しくて切なくて甘くて苦しい音。
その手を離さないで抱きしめていて幸せな夢を見させて、どうか。
すがるように見とれるように視線を向けた先の、端正な顔が苦しげに、わずかに曇る。
間をおいて開かれた唇から、渡された言葉。
「こんな所で寝ていたら風邪をひく。・・・・・・自分のベッドにお戻りよ」
仕方のない子供を諭すようにたたかれた肩。途方にくれて泣き出しそうな、仕方のない子供そのままの俺。
けれど涙だけは見せたくなくて、ゆっくりと名残惜しむ身体を幸せから引き剥がし、無理やりに笑顔を作って見せる。
「ああ、わりぃ。・・・・・・・・・おやすみ、アル」
ドアを開けて振り返って、もう一度だけ幸せを瞳の奥に焼き付ける。
そこにあるのは穏やかで清潔な笑顔。
「おやすみ兄さん。よい夢を」
気力だけで笑顔を返し、なんとかもう一度おやすみとつぶやいて、弟の寝室を後にする。
ドアを後ろ手に閉めた途端、こらえていた涙があふれて止まらない。
その腕が抱きしめてくれなければ。
一人のベッドじゃ良い夢なんて見られない。