『 高い空に、鳥が鳴いて 』










 背の高い草が風になびく草原に膝を抱え座り込んで、茜に染まる雲を見ていた。
 思考は同じところをぐるぐると回るばかりで、いつだって答えなんか出はしない。

 いや、違う。
 答えならわかっている。
 ただ先延ばしにしているだけなんだ。
 その心地よい場所を出てゆくのが惜しくて怖くて、先送りにしているだけなんだ。


 解っていて・・・・・・自分の弱さに愚かさに、嫌気が差した。
 嫌気が差してもそれでも・・・・・・・・・・・・・。









「はぁ・・・・・・・・・やっと見つけた。なんだっていつも違う場所で埋もれてるのさ?」
 息を切らせて眉根を寄せて、ため息混じりに弟が言う。
「ん?ああ・・・・・・悪いな、アル」
「ふらっと出かけるにしても、せめて同じ場所にいてよ」
 探すの大変なんだよ、だだっ広いんだからこの草むら、と、ぼやきながら俺の隣に腰を下ろす。
 吹きつけていた風が遮られてやわらぎ、傍らにほんのりと熱を感じた。

 肩が触れるか触れないかという、いつもの位置で並んで座った。
 間を通り抜けてゆくまとわり付くような風が、二人の距離を俺に教えた。

 ゆっくりとした動作でアルが俺の髪に指を伸ばす。
「葉っぱが付いてる」
 ほら、と、俺の目の前にかざす。俺の目が映すのは葉をつまむ長い指先。
 爪の形がきれいだな、なんて、まるで関係のないことを思う。
 黙ったまま、アルの指先を見つめる。ふわりと笑う気配を感じてなぜだかそれが気恥ずかしいようないたたまれない気分になって目を合わせることが出来ずに、どこを思うでもなく見つめるでもなく、ただ遠くに視線を流した。





 ピィと、鳥が鳴くのが聞こえる。
 見上げた高い空を小さな影が過ぎてゆくのをぼんやりと、目で、追った。





「兄さん・・・・・・・家へ、帰ろう?」
 草の上に下ろしていた手に、アルフォンスのそれが重なる。
 空気が動き影が差して、アルフォンスが立ち上がったのだと知る。
 きゅっと握られそっと引かれて、立ち上がるようにと促される。

 握られた右手を包み込むぬくもりに安堵と困惑と胸の痛みを同時に感じて、こんなときはどうすればいいのだろうかと、的外れなことを考える。




 あの鳥は、どこへ行くのだろう。
 俺は、どこへ行けばいいのだろう。











 長い長い旅の果てに、弟の生身の肉体と、俺の手足を取り戻した。
 取り戻して二人、固くかたく抱きしめあった。喜びに震えた。


 痩せこけた腕の中は、でも温かくて懐かしくて、こんな幸せがこれほどの幸せがこの世界にあるのかと驚きもした。
 その腕の中から出たくないなんて、思った。
 その感情の名前を知った。

 そんなわけにはいかないのに、馬鹿なことを思った。

 だってアルはもう自由に自分の人生を歩むのだから、俺は、それをただ見守ってやれば良い。
 アルが人並みに恋をして伴侶を得て家族を作り幸せになるのをただ、遠くから、ただ願い祝っていれば良い。
 世界中で一番幸せになってくれることを遠くからただ祈っていれば良い。
 頭では解っているのに、アルのいない日々というものが想像も付かなくて、離れたくなくて。



 だから、なんでもないという顔を作った。



 目的を遂げて、なんでもない顔をして、世話になった人たちに挨拶にも回った。
 祝福の言葉を浴びて輪の中で笑うアルフォンスの姿が、好ましいのにとてもとても遠くに感じた。


 アルの生身の肉体を取り戻して目的の旅を終えて、俺は、空っぽになった。
 何をしたらいいのか、どうしたらいいのか、判らなくて。
 離れるのは嫌なのに、傍にいたらいけない気がして、毎日こうして外に出た。
 草むらの中に埋もれるように膝を抱えて空を見上げた。



 何も考えたくはなかった。
 何も考えないようにして、ただ、空を見上げた。
 丘の上で草むらで森の中で、自分の気配が希薄になってゆくのを感じた。
 この世界に溶け込んでしまえればいいと思った。まるで最初からいなかったみたいに、アルの記憶からも誰の記憶からも跡形もなく、消えて溶けて・・・・・・・・・。

 でも、肌寒ささえ感じなくなる頃にいつも、アルフォンスが俺を見つける。
 いつも少し、怒ったような顔をして。
 見つけられて俺は、すこしほっとして、そして心が痛くなる。
 だってアルのその表情は、幸せとはかけ離れて見えたから。


 鳥の声は物悲しく、それがこの光景にとても似合いに思えた。




 俺の大切な弟はとてもとても優しくて、俺に穏やかな幸せをいつだって与え続けてくれていたのに。
 俺はいつも、アルを不幸せにするのかもしれない。


 それがとても、悲しかった。












 空の天辺で太陽は柔らかな光を降り注ぎ、どこまでも抜ける青がまるで俺を拒絶するかのように、きれいで、あまりにもきれいで、縋るように窓から見上げた。


 拒絶されてなお救いを求め、いつもみたいにそっと、玄関のドアを開けた。
「兄さん」
 硬い声がかかるのと同時に背後から引き止められ、ドアノブごと手を覆われる。薄く開いていた扉がパタンと音を立てて閉じる。
「雨が、降るかもしれない」



 玄関の飾り窓から差し込むのはキラキラとした軽やかな光。


 振り返る。いつの間にか見上げるほどになった金の瞳、感情の読めない整った顔立ち。
 手を覆うのとは別の腕が、俺の腰にきゅっと捲きつく。
「ここに居て・・・・・・・・・外へ行かないで」
 表情は読めないのになんだか気おされて、俺は小さく頷いた。
 落とした視線の先、シャツを握る指策が赤くて、迷子のようだと思った。
 その心細い指先を守るように手のひらを重ねた。しがみつくように深く抱きしめられて、愛しさと哀しさが胸の中で混ざり合って揺らいだ。


 幸せであって欲しいと願う、その弟がこんなにも悲しげなのが、とてもとても辛いと思った。
 不安を悲しみを取り除いてやりたいと思った。
 せめて、コイツのために出来ることがしたいと思った。
 大切な、誰よりも大切なたった一人の弟・・・・・・アルフォンスのために。

「ああ。ここに、居るよ」

 だから、何がお前をそんなに不安にさせているのかを苦しめているのかを聞かせてくれ。
 何でもしてやりたいんだ、俺は。お前が幸せに笑えるように、誰よりも幸せに笑えるように。
 今まで辛い思いをさせた分、不自由をさせてきた分、誰よりも他の誰よりも幸せに。
 ただひたすらそう願って、もしそうすることでコイツが安心できるならと抱きしめてやりたかったけど背中から覆われていて叶わなくて、触れた指先を包み込んで温めた。

 お前が、大切だよ・・・・・・と、心のうちでつぶやいて。

 促されてソファーに座る。  本を持ち込んだり茶を入れたり寒くはないか暑くはないかと、こまごまと動き回ってはちらちらと俺を窺う。その様が子供のようでおかしくていとおしい。  ほほえましくて、口元を緩めた。
 目が合って、アルが笑った。幸せそうな顔で。
 なぜ、さっきの今でこんなにも様子が違うのだろうと不思議だったけど、アルが笑っているならいいと思った。
 アルが笑っていることが、一番大事なのだから。


 本を読んでいたら視線を感じたので、顔を上げた。
「ん?どうかしたのか?」
 話したいことがあるのか、あの悲しそうな顔のわけを?
「ううん、なんでもないよ」
 それよりお茶のおかわりはと訊く弟に、今はいいよと答えて立ち上がる。

 途端に、曇る顔。

「兄さん・・・・・・・・・どこへ行くの?」
 こわばった声。
「部屋。手帳とってくるだけだ」
 家に居るって言っただろ?と、肩をすくめておどけてみせた。



 思っていた場所に手帳が見当たらず、部屋中引っ掻き回してようやく見つける。扉を開けると、正面の壁にもたれてアルフォンスが膝を抱えていた。
 先刻のような心細気な顔をして。
 やっぱり、なにかあったのか?
「どうしたんだよ、お前」
 さっぱりと刈り込まれた髪を撫でる。指先に、想いをそっとしのばせる。


 愛しているよ。


 ガラス越しに太陽が、アルフォンスの金色の髪に祝福の光を落とす。
 ああ、お前には光が似合うな。
 幸せの象徴みたいな、青い空が、まばゆい光がとても似合うな。
 なのになんでそんな泣きそうな顔してるんだよ。

「目を離したら・・・・・・兄さんが居なくなる気がする」

 むずがる子供のような声に、胸の奥がしくりと痛んだ。
 いつもいつも、ここから離れなければと考えていた。

「毎日、僕がどんな思いで探し回っているのか、兄さんは知らないでしょう?」

 胸が痛くて、しくしくと痛んで、だから俺はわざと茶化して笑いかける。
「いい加減兄ちゃん離れしないと、彼女も出来ねーぞ」
 その言葉は俺自身の胸に鋭く刃を立てるものだけれど。

 でも、どうか、お前だけは幸せに。人並みに普通に、そして誰よりも幸せに。

 俺には無理だから。
 俺は幸せを手にする資格なんて、持ってないから。
 お前がちゃんと幸せになれるように・・・・・・・・それが俺の責任だから。

「彼女なんて、要らないんだ。本当は」


 顔を上げてまっすぐに俺を見上げる、思いつめたような強い瞳に、胸がざわめく。

 ・・・・・・・・・いけない。
 それは、俺がお前を盗み見るときと同じ目だ。


「彼女なんて欲しくないんだ。僕は、兄さん・・・・・・・・」

 あなたが、と、禁忌をつむごうとする唇を指先で封じる。
 それは焦がれて止まない言葉だったけれど、俺が受け取ってはいけないものだから。
「駄目だよ、アル」
 いつかお前が当たり前の幸せを目の前にしたときに、後悔する。取り返しの付かない傷になる。


 お前が、大切だよ、アルフォンス。


「俺たちは兄弟だ。血を分けた・・・・・・・・・そうだろ?」
 親が子供をなだめるような、そんなしぐさで指先に想いを乗せて頬を撫でる。

 大切だよ、お前が誰よりも大切だよ、愛しているよ。
 でも、だからこそ俺がお前の穢れになるだなんて、そんなことは許されないから。

「解ってるよ、解ってるけど・・・・・・・・・・他の誰も、欲しくないんだ」
 覚えてはいけない喜びの感情をなだめすかして封じ込めて、そっと、温かな頬から手を離す。
「愛してるんだ・・・・・・・兄さん」





 ああ、どうか・・・・・・・・・俺を最初から無かったことにしてくれ。
 アルの記憶からも誰の記憶からも、跡形もなく俺を消して。



















 東の地平線がうっすらと白む頃、俺はわずかな荷物を携えて家を出た。

 本当はもう少し早く出て来たかったのだけれど、アルの私室からは遅くまで細く灯りが漏れ、起きている気配が窺えた。
 闇がともり静まり返り、眠りが深くなる頃合を見計らって足音を忍ばせて。


 朝の光がアルに注いで目を覚まして、すこし驚くかもしれない。すこし怒るかもしれない。
 でも、何日かすればきっと慣れるから。
 愛しているよ、いつまでもお前を愛しているよ。
 世界中のどこに居ても、お前の幸せをずっとずっと願い続けるよ。



 だからどうか、どうか、お前だけは幸せに。





 旅を終えて数年の間暮らした家が見えなくなるぎりぎりのところで、一度だけ、と共に居た時を惜しんで振り返った。
 最後にその寝顔を見ることは叶わなかったけれど、それもまた仕方がない。
 遠く小さく見えるその家の中で眠る弟に小さく笑みを残し、先を急ごうと行く道へ向き直った。


「兄さん、一人でどこへ行くつもり?」


 心臓が、痛いほどに跳ねる。
 何の気配も感じなかった。考え事をしていたからか?戦いから遠ざかった生活の中で俺はそんなに鈍ってしまっていたか?

 恐るおそる声のほうへ目を向ければ、旅支度を整えたアルフォンスの姿。

「アル・・・・・お前」
 背筋を伸ばし俺を見下ろすその姿に昨日のような弱々しさはまるでない。凛とした空気、決意を固めた静かな瞳。
「僕がどれだけ、兄さんのことを知ってると思うの?」
 夜のうちに出て行こうとすることくらい予想できないわけがないでしょ、と、笑みさえも含んだ余裕の様相。
「兄さんがどこへ行こうと、僕は付いていく。昨日・・・・・・僕があんなこと言ったのに、兄さんは驚いたりしなかった。駄目だとは言ったけど、嫌悪した顔じゃなかった」
 守ろうとするときの顔だったと、まだ自分を大切に思ってくれているのでしょうと、確信に満ちた声音で。
「だから、僕は兄さんを諦めないよ」




 どうして。
 何一つ欠けることのない肉体を取り戻してこれからはただ、当たり前の幸せを望むことができるのに、どうしてこいつはまた禁忌へ戻ってこようとするのだろう。

 俺が、そうだからか?
 俺がアルに惹かれてしまうからなのか?
 これも俺の咎なのか?

 哀しくて悔しくてでも愛しくて、泣きたくなる気持ちを押さえ込んで茶化しに換える。
「それは無駄だから諦めろ。・・・・・・なに俺いつ寝込みを襲われるかって気も抜けねー旅?」
 無理強いだなんてそんな野蛮なまねはしないと憤慨する弟を置いて、駅へ向かう道に足を踏み出す。
 思ったより足早に朝は訪れようとして俺の足元を白く照らす。


 これまでいくつもの罪を重ねてきた俺は絶望を友とするのか。
 俺の世界でいちばんきれいな者すらも闇に引きずり込んでしまうのか。


「ちゃんと、僕を好きになってもらうから」
 脚の長い弟はあっという間に追いつい来て、並んで歩く。
「駄目だ」
 いつか俺なんかよりずっとお前を大切に幸せにしてくれる女の子に出会って。
「後悔なんて生易しいもんじゃないぞ、血の繋がった兄弟でなんて」
「兄さん以上に僕を大切に思ってくれる人なんか居るもんか」
 まあ、それに関しては自信があるが。

「先のことなんてわからねーだろ」
「他の人なんて、好きにならないよ」

 どうしたら信じてくれるのさと言う声があまりにも真剣だから、顔は見ない。

「なら・・・・・・」
「なら?」


「俺が死ぬ間際にまだ、お前が俺を好きでいられたら信じてやるから、そん時にはキスしてくれよ」

 笑いながら挑発するように言ってやって、隣を歩く男を見上げる。
 鳩が豆鉄砲を食らったような顔が見る見る間に赤くなり、やがて怒りの形相に変わる。
「何だよそれっ!大体そんな死ぬだなんて縁起でもない!」
 本気で怒っているアルフォンスがいとしくて、笑った。



 大声に驚いたのか草むらから鳥が二羽、飛び立ち明けの空で細く鳴いた。




 なあ、お前達はどこへ行くんだ?


 俺は・・・・・・この幸せな絶望の淵のぎりぎりのところで。
 愛しい者が足を踏み外さないようにと、ただ。


「あんまり喚いてると置いていくぞ」
 声をかけると、慌てたように追ってくる。



 愛しくて哀しくて、アルフォンスが追いついて来るのを笑顔で待った。












END