『 ひとり見上げる遠くの空に 』










 港町から遠く離れた海岸線には軒を借りられそうな家などはひとつだって見当たらず、砂浜からほんの僅か離れた夏草の上に、ブランケットを広げて寝転がる。

 見上げた空は、零れ落ちそうな満天の星。

 様々な色のきらきらした瞬きの間を流れ星がすう、と、光の糸をひいて消える。ひとつ、また、ひとつ。そして、次々と。


 ああ、あの頃もよく野宿をして、こんなふうに夜空を見上げた。
『すげえな』と『落ちてきそうだ』と地面に寝転がって両手を高く掲げ、僕に笑いかける。
 キラキラの金の髪を解いて、兄さんは、僕の手を取った。






 光の帯のような群れを成す星は、今まで見上げた中でもとりわけ綺麗で。
 ああ、これを見たら兄さんはなんて言うかな。
 目を丸くして『すげえな』って、また僕に笑いかけてくれるかな。
 兄さんと見たいな。
 兄さんにも見せてあげたいな。
 兄さんが居ればいいのに。ここに兄さんが居ればいいのに。


 一人で旅に出て世界中を回っても、いつもいつも兄さんのことばかり考える。



 その手を放したのは、他でもない、僕なのに・・・・・・・・・。












 嘗て僕は、温度のない何の感触ももたらさない鎧の手のひらで、何度も何度も、兄さんの肌に触れた。
 溺れるものが縋るように、欠けた何かを必死で埋めようとするように。

 でも。

 判らないんだ。

 僕の手を許す兄さんの胸のうちにあるのが愛情なのか同情なのか優しさなのか慰めなのか、それとも・・・・・・・・・諦めなのか。
 掠れた声で僕を呼ぶのが聞こえても、汗が金の髪を伝わり転げ落ちるのが見えても、触れている手のひらは何の熱も感じない、その肌の感触も伝えない、含ませた指も、何も。

 判らなくて・・・・・・判らなくて埋まらなくて。
 自分の空ろを思い知るのに、差し伸べられる手に縋り付きたくて。僕を呼ぶ甘い声に、僕がここにいることを求められていることを確認したくて。
 僕の首を掻き抱く兄さんの腕がうれしくて恋しくてたまらないのに不安で不安で、同じくらいたまらなく辛くて。



 何も考えずに、ただ、愛せればよかった。
 空っぽの鎧であることを忘れ、ただ兄さんを愛せればよかった。
 愛することだけで満たされることのできない僕は、なんて醜く愚かなんだろう。
 愛しているのに。
 深くふかく愛しているのに、どうして僕はあなたの言葉をただ信じてしまうことができないんだろう。その気持ちに嘘はないのに、なぜ。





 遠い国でたった一人見上げる星はキラキラときれいで、まるで兄さんみたいで、手を伸ばしても遠くて遠くて届かない。





 帰れないから。
 生身の身体を取り戻して五感のすべてを取り戻して、触れてみたくて、でも触れるのが怖くて拒絶されるのが怖くてあなたをまた苦しめるのが怖くて。

 僕は・・・・・・・・・・・・・逃げ出したんだ、あなたの前から。
 あなたが、眠る隙に。


 ねえ、兄さんは今、元気ですか?幸せですか?
 僕がいなくて寂しいですか?
 それとも・・・・・・・・・ほっとしていますか?


 会いたくて帰りたくて、だけど怖くて帰れなくて。
 兄さんみたいなきらきらの遠い夜空に、焦がれてまっすぐ腕を伸ばした。













 翌日の夕方、他の国への船が出入りもする大きな港町にたどり着いた。
 このまま船で海を渡るか、この港で宿を取って明日の朝一で汽車に乗ろうか。
 海に流れ込む小川の河口、橋の欄干のひんやりとした石の感触を掌で味わいながら、夕日が照らす水平線を見ている。
 金色に、輝く海。
 キラキラと、光る海。

 傾き始めた夕日が照らす、キラキラ光る金色の海。
 兄さんの、髪のようなきらきらの・・・・・・・・・。
 焦がれて、目が離せない。

 会いたくて会えない、遠くの光・・・・・・・・・。


 会いたいよ・・・・・・会いたい。






 その遠い金色に心奪われていた僕の後頭部を突然、ガツンと鈍く強烈な衝撃が襲った。
 まるで身構えていなかった僕は橋から勢いよく投げ出される。

 物取りか・・・・・・・・?いや、殺気なんて感じなかった。そんな気配は感じなかった。
 誰だ?気配を殺していたのか?ホムンクルスとの戦いは終わった筈だ。
 それとも・・・・・・・・・まだ?




 必死で受身を取って振り仰ぐ。
 刺客が、僕めがけて舞い降りてくる。光含んだ金の髪を きらきらと風になびかせて。


「兄・・・・・・・・・・さ・・・ん?」



 表情を抑えた人形のような顔に夕日が綺麗に陰影をつける。


 思わず見惚れた僕の上に兄さんが落ちてくる。
 圧し掛かられ押さえつけられ川に沈められ・・・・・・・ひやりとした水の中で、口付けられた。





「ぷはっ・・・・・・・!」
「はぁ・・・はっ・・・・・・・・・兄さ・・・・・ん?」
 酸欠でくらくらし始めた頃、胸倉をつかまれて上半身だけ引き起こされる。尻餅をついた体勢の、腰から下はまだ水の中。兄さんはまだ無表情のまま、僕に跨っている。

 無表情の半眼で。
 あの瞬間湯沸かし器のような兄さんが、らしくないところがとてつもなくおっかない。




 ・・・・・・・・・・・・怒ってる・・・・・・・・・見たこともないくらい怒ってる・・・・・・・・・。




 掴んでいたシャツを離し、兄さんは、その生身の両手で僕の耳を左右にギュウと引っ張った。
「いででででででっっ!!ちょっっ!兄さんっっっ!?」
 痛い!!本当に痛い!!
「お前が悪い。俺だって痛かった・・・・・・・・・・・・・・ここが」
 俯いて、自分の胸元を指す。ようやく浮かぶ表情。悲しみの、それ。
「お前、ほかの事なら全部、俺のこと信じてくれたけど。こんな肝心なところだけ・・・・・・お前への気持ちだけ、信じてくれねぇし」
 悔しそうに、悲しそうに寂しそうに。奥歯をぐっと噛み締めるように。

 一度離れた手が、きゅっと、僕のシャツの裾を握る。迷子みたいな心細い仕種で。

 離すまいとするそれがまるで、僕が家を出た朝の兄さんの気持ちを僕に教えるようで、胸がしくりと痛んだ。
 震えるように痛んで、愛しさがこみあげて。
「ごめん・・・・・・・・・・ごめん兄さん・・・・・・・・・・・・・・・・・・怖かったんだ」
 生身の肉体を持たなかった僕への哀れみだったとしたら。僕があなたを追い詰めてしまうことになったとしたら。


 絶望しながらもきっと、諦めとともにあなたは僕にその身体を差し出すのだろうから。怖くて。どうしても怖くて。あなたを犠牲にしながら生きていくのが、怖くて。



 でも、兄さんはこうして僕を追いかけてきて、居なくなったことを怒って。



「信じろよ、俺のこと・・・・・・・・・・」
「うん・・・・・・」
 兄さんが僕の肩に額を寄せ、きゅっとしがみつく。

 夕暮れ時の、街のざわめき。茜に照らされていたその色合いも、落ち着いた蒼に塗り替えられてゆくだろう。

「ちゃんと信じろ・・・・・・・・・愛してるんだ」
「うん。僕も、愛してる」
 いとしさに後押しされて、温かな身体を抱きしめる。

 パシャパシャと跳ねる軽快な水音。


「ちょっとあんたら!!喧嘩だって言うから来てみたら!!!野郎同士の痴話げんかなんざどこか他所でもっと地味にやってくれ!!!」
 すっかり二人の世界に入っていた僕は突然の怒声を浴びて硬直する。
 おそるおそる顔を上げると、肩を怒らせた警官。さっきまでいた橋の欄干には鈴なりのギャラリー。
 ザッと、音を立てて血の気が引く。
「ごっっごめんなさいごめんなさい!!お騒がせしましたっっ!!」
 放り出していた2人分の荷物と兄さんを抱えて、僕は全速力で退散した。

 兄さんが声を出さず小刻みに震えながら笑うほんのわずかな振動が、抱えあげた肩に伝わる。
 落とさないようにと兄さんを担ぎなおし、何を暢気な、と思いながらも心の中はほっこりと温まり、僕の口元も幸せに緩んだ。








「アル、お前、今日の宿とってる?」
 僕の肩に引っかかった姿勢のまま兄さんが口を開く。
「取ってない・・・・・・・・・兄さんは?」
「俺も。さっき着いたばっかりだし」
 革の靴が水を含んで、一歩進む毎にびしゃびしゃと重苦しい音を立てている。
 全身濡れ鼠の男が二人、しかも一人は肩に担がれたままで平然と言葉を交わす僕らはそりゃもう注目の的で、道行く人は遠慮がちだったり無遠慮に凝視したり驚いて目を瞠ったりしている。


 でも、そんな視線も気にならない。
 だってこの世で一番大切な人が、肩の上で腕の中で笑っている。
 手放すには惜しい幸せ。


「こんなビッショビショで泊めてくれる宿なんてあるかな?」
「ないんじゃね?いいじゃん、野宿だ野宿」
 もう慣れっこだし俺、と、兄さんが笑う。
 2日続けて野宿かと見遣った先の、低い空には一番星。




「ねぇ、兄さん。星を見に行こうか?お勧めの絶景ポイントがあるんだ」




 降るような星を満天の星空を。
 遠い遠い満天の星空をあなたと二人で見上げよう。


 きっとあなたは「すげえな」って、笑うんだ。










END