『 夜にまぎれて添う鳥の 』
まるで拷問のようだと思った。
「愛してるよ、兄さん」
朝も昼も夜も、甘い声で甘い言葉を弟が囀(さえず)る。
「愛してるんだ」
甘い、甘い拷問。
歓喜と困惑と絶望が渦巻いて俺を縛り付けて……だから俺は、途方にくれる。
‘どうしたいのか’と‘どうするべきなのか’が朝も夜も諍いを続けてばかりいる。
どうするべきなのか、それだけを優先させなければならないのに、未練がましく性懲りもなく。
「愛してる」
甘い言葉がまた耳朶をそっと撫でて、胸が狂おしく掻き乱される。あの日触れた唇の甘さが忘れられずになんども、また、甦って。
愛してる。俺も。
けれどその言葉を音にすることに躊躇いはいつもあって、俯いて、アルが諦めてくれるのを祈るような気持ちで待ち続けて。
愛してるよ、愛してる。
差し伸べられた手を本当は、取ってしまいたいけれど………でも。
その手をとることが、怖いんだ。
他のことならどんなことにでも、後先を考えるよりも先に身体が動くのに、どうしても怖いんだ。
その手をとってしまったら、離れられなくなるから。
愛しているから。
大切だから。
アルがいつか、過ちに気づいてしまうのが怖いんだ。
後悔されることが怖いんだ。
怖くて、堪らないんだ。
それなのに、甘美な誘惑が何度も何度も俺の気持ちを揺り動かして。
「きれいな髪……もっと、触れたいよ………兄さん」
頭からすっぽりと被った毛布からはみ出した毛先を大切なもののように丁寧に撫で梳かれ、繰言のように甘い言葉がまた紡がれるからこそばゆくて苦しくて、俺は眠りの中に逃げ込んだ。
だって気持ちが良くてもっと触れてほしくなってしまうから。
触れられて溶かされてしまったら離れられなくなってしまうから。
欲しくなって離れられなくなって、アルがいないと生きていられなくなってしまうから。捨てられたら生きていられなくなってしまうから。
何でこんな気持ちになるんだろう。何でこんなに弱くなるんだろう。心細くなってしまうんだろう。
心細いのに、触れる指先が優しくて甘くて、縋り付いてしまいそうになる。
眠らないと。早く眠りに逃げ込んでしまわないと。
眠って、しまわないと………。
目に映るのは子どもの頃にアルと二人で額を突き合わせ錬金術書を読み漁った親父の書斎で、だのに背中にはふかふかのベッドの感触。
だから、これは夢なのだとぼんやりと思った。
夢だから……抱きしめられて、抱き返した。
夢だから、口付けを貪った。
『アル……ア…ル………あいして……る』
夢だから想いを伝えて、愛をねだった。
肌に触れる指先に手のひらに唇に、素直に身体を開いて、与えられる熱に快感に酔い痴れて……。
夢だから………これは俺の見ている夢だから……。
『兄さん……愛してるよ』
苦しくなるくらいキスをして身体の奥の深いところに熱を埋め込まれて繋がって。
『俺も。愛してるよ、アル……』
愛してる…愛してるよ、本当は、ずっとこうしたかった。血を分けた兄弟で、いけないことだけど、本当はずっとこうしたくて……。
『愛してるんだ…アルフォンス』
「兄さん……兄さんっ…!」
突然激しく揺さぶられて、反射的に目を開ける。
ぼんやりとした視界に映るのは、顔を上気させた困惑顔の弟。最愛の弟。
それが夢なのか現なのか混濁して惑うけれど、アルは服を着ているし見上げた天井は眠る前と同じ色の、宿屋の見慣れない壁紙だったので、夢から覚めたのだと、解った。
両方の肩を包み込んだアルの手の熱さが夢の中で感じたそれと同じだ、なんて、まだはっきりしない頭で考える。
「兄さん……」
目の前の、形のいい喉仏がゴクリと上下して、何かを堪えているようなアルの顔がゆっくりと近づいてくる。唇が触れそうになった瞬間、はっきりと覚醒してしっかりと現状を理解して、アルフォンの肩を全力で押し戻した。
「なっ…なななっっ!!」
「に・・・っ兄さんっ」
何血迷ってんだと必死な俺に、アルもまた、どういうわけだか必死の体で覆いかぶさってくる。
「落ち着けっ!お前紳士協定はどうしたっっ!?」
「そんな協定知るかよ!?だいたいあんな悩ましい寝言聞かされて落ち着いていられるか!」
……………え?……寝言?なにそれ…………?
「どんな夢見たらあんな色っぽい寝言が言えるってんだ白状しろ兄さん!」
え、いや、あの……?
やっちゃいましたか俺……?
「好きで好きで無理強いしたくなくて落ちてくれるまで無茶できなくて指銜えて見てるだけしかできない人によがり声上げて切ない声で名前呼ばれて平静でいられる男なんて居るもんか!!」
一息でまくし立てられ見上げた弟はものすごい迫力で。
「もういい加減腹を括れ僕のものになれ」
獰猛な獣に睨み据えられその強い言葉につい従いそうになりながらも、何とか理性の尻尾に縋り付く。
「だ……っ駄目ダメだ駄目だ!」
「何でだよ!夢の中の僕のことは受け入れたんだろう!?」
いつも見せる憎らしいほどの余裕は鳴りを潜め、ただ、必死に。泣き出しそうな顔で、必死に。
「倒れる瞬間とか、夢の中でとか、意識がちゃんとしてないときには‘愛してる’って言ってくれるじゃないか……本心なんでしょ?それが兄さんの本心なんでしょう?」
ずるいよ、と、弟が歯を食いしばる。
「僕を受け入れてよ。僕にも愛してるって言ってよ…ちゃんと言ってよ、夢の中の僕だけじゃなくて、僕にも言ってよ」
言いたいよ……俺だって、言いたい。愛してるって、お前に。
でも………。
「駄目だ。お前はちゃんと幸せにならないと……」
「……っ」
俺の二の腕をつかむ手に、力が入る。苦しそうに、顔を歪めるのはアルのほうで。
「ちゃんとって何だよ。もう、たくさんだよ。その台詞は聞きたくないよ…っ」
「アル……」
「好きで…ずっとずっと好きで他の人なんて目にはいんないよ。僕だって悩まなかったわけじゃない、毎晩、兄さんが眠ってる間ずっといろいろ考えて悩んで、でも……どうしようもなく好きで」
俺の腕をつかんでいた手のひらから力が抜けて、俺の胸にそっと額を摺り寄せて、呟くようにこみ上げるものを飲み下すように。
「お前……なんて顔、してんだよ」
「つらいからだよ……。心がここにあるって、僕に向いているって判っているのに…その言葉を聴かされるのは、つらいよ。諦めようと何度も思ったけど諦めきれない、好きで好きでたまらない兄さんからその言葉を聞かされるのは、つらいよ……」
つらいよ、と、また繰り返して胸に頬を寄せる。
心細い子供のような様に、心はつきりと痛みを教えて。
その背を髪を抱きしめたいと訴える両手は、どうしたらいいのか判らなくて宙を迷って。
「人の心なんていつか変わる、って、兄さんは言ったけど……変わるのかもしれないし、変わらないかもしれないし。変わるとは思えないけど、それを今、証明して見せてあげる方法はないし」
でもそれは、誰にだってできないんだ、と。
「普通じゃないけど、人の道に背いてるかもしれないけど、でも……兄さんが居ないところになんて、僕の幸せはないんだ………兄さんしか、好きになれないんだ」
震える声でそう言って、俺のシャツを握り締めて。
愛しいと思う悲しいと思う、溢れかえる気持ちを抑えきれなくなって、宙を泳ぐ腕を好きにさせたら、まっすぐに緩やかに、アルフォンスの背を抱いた。
抱きしめて……大切に包み込んで。
「………愛してるよ、アルフォンス。愛してる」
諦めのような、それは穏やかな気持ちで。
目を丸くした驚き顔が、俺をまっすぐに見つめる。
「愛してるよ……アル」
驚き顔が、泣き笑いに変わる。
「お前、なんて顔してんだよ」
「……嬉しいから。幸せだから……」
諦めのような絶望のようなこの気持ちは、でも、確かに『幸せ』で。
日の目を見ることはできない、悲しみにも似たこの気持ちはそれでも確かに俺たちにとっての『幸せ』で。
「ね……兄さん………キス、していい?」
せっかく生身の肉体を取り戻して、これからは当たり前の幸せを望めるというのにこの弟は、俺の願いなんかそっちのけでこんなところにまで降りてきてしまって。
「ああ……いいよ」
窓の外から、夜鳴き鳥の呼応が聞こえる。
ゆっくりと、アルの顔が近づいて、唇よりも先に涙が触れて。
俺は目を閉じ、愛しい者の背を深く抱いた。
END