『 君が幸せであるように 』
僕は今、とても困惑している。
外面ばかりは平静を装い、余裕ありそうな微笑なんて浮かべてみるけど、僕は今、猛烈に困惑している。
いや、むしろ‘迷惑’か?
「分からない人ね。だから、私が恋人になってあげても良いって言っているの」
分からないのはアンタのほうだろう、と、心の中で僕は毒づく。
「押し売りやセールスの類はお断りしているんですが」
「な・・・・・・・っ!?」
一般的には美人なのかもしれない、目の前の若い女性がこれ以上開かないだろうという位に目を剥いた。
「なんですって?押し売りですって?なんて失礼なの!?冗談じゃないわよふざけんじゃないわよこんなド田舎までわざわざこの私が来てやったっていうのに一体どういうことなのよっっ!?」
金切り声で早口言葉でものすごい剣幕でその女の人が顔を真っ赤にしてまくし立てる手にしたハンドバッグをびゅんびゅんと音を立てて振り回す僕に向かって。
それをひょいひょい避ける僕にその人はますます腹を立ててか当たらないことを察してか、鼻筋に皺をよせギッと睨み付けて踵を返す。
「こんな失礼な人信じられない見たことがないっっ!!」
まるで金切り声のような悲鳴のような叫びのような。
石畳すらも敷いていない、家から通りまでの土くれの道に、かかとが減り込みそうなハイヒールでどすどすと去ってゆく。
僕は無言で・・・・・・・・・いや、言葉もなくただその様をわけも分からず見送るだけ。
「なんだったんだ・・・・・・・・・一体?」
扉を閉めて戻った、たった一人のリビングルーム。僕は深く、溜息をついた。
こんなことをしている場合じゃないのに。
兄さんは不在。街の図書館に用があると言って出かけて行った。
一緒に行くといった僕に、留守番をしていろと硬い笑顔で、返して。
生身の身体を取り戻した。兄さんの、腕と足も。
ホムンクルスたちとの戦いを終えて、平穏無事に暮らせるようになってリゼンブールに戻って。
焼いた家の跡に新しい家を建てて昔みたいに、母さんを亡くした後の数年間のように、二人で、ここで暮らし始めて。
でも。
このところ、考え込むような姿をよく目にするようになった。
以前のような勢いが感じられず、少し俯いて、僕と目を合わさないことが増えたような気がする。
額をつき合わせて錬金術の本に見入るようなことも最近ではほとんどない。
四六時中一緒にいる僕がいい加減鬱陶しくなったのだろうか。
朝起きてから、夜眠るまでの時間をずっとずっと、共に過ごす僕がもう、いい加減に。
本当は想像するだけでも心が引きちぎられてしまいそうなことを考える。
傍に居たいんだ、兄さん。
あなたの傍で、あなたの笑顔を見て居たいんだ、いつも。
傍に居たいから、少し距離を置かなければいけないのかもしれない。
傍に居たいから。もっとずっと、あなたの傍に居たいから・・・・・・・・・兄さん。
きっとあなたが思いもよらないような『想い』を僕はあなたに抱いている。
傍に居たい。触れてみたい。
深く、強く抱きしめて、口付けて、その肌に触れて快感で縛り付けてしまいたい。誰も聞いたことのない甘い声を誰も見たことのない甘く蕩けた顔で、あげさせたい。
僕なしじゃ居られなくして、ずっと、ずっと傍に。
暗い欲望を胸に秘めていても、やっぱり嫌われるのが怖くてあなたが笑っているのが見たくて、僕はいつもあなたの傍で、何度も何度もあなたのことを諦め続ける。
叶うはずのない欲望よりも、共に居られる幸せを。
何よりもやっぱり、あなたには幸せに笑っていて欲しいから。
ねぇ、もう少し距離を置いたらまだ暫くは、僕を傍においてくれますか?
あなたの邪魔をしないから、まだ暫くは傍に居てもいいですか?
ねぇ・・・・・・・・・兄さん。
傍に居たいよ。愛しているよ。
愛しているよ。
夕方、この何もない村一面がオレンジ色に染まる頃、兄さんが帰宅した。
2階の自室の窓から見えた、扉の前で躊躇うように立ち止まる俯き加減のその小さな影に、胸が強く痛んだ。
気付いてしまったのかな、僕のこの歪んだ想いに。
気付いてしまって、気に病んでいるのかな。口は悪いけど優しい人だから。何でも自分のせいにして、一人で背負い込んでしまう人だから。
僕があなたを悲しくさせているのかな。
僕はもう・・・・・・・・・あなたの傍に居たらいけないのかな、あなたを悲しくさせてしまうのなら。
ねぇ、笑ってよ、兄さん。いつもみたいに。
立ち止まらずに入ってきて、ここは兄さんの家だから。
兄さんが悲しそうな顔するのは、辛いよ。兄さんが笑ってくれないのは、辛いよ。
口に出せない気持ちが膨れ上がって、切ないけど辛いけど。
なんでもない顔をしてあなたを迎えないと、いけない。
ただの弟の顔をして、なんでもない顔をして、あなたを迎えないといけない。
あなたが気に病まなくてもいいように。
‘弟’の顔をつくろって居間で迎えた兄さんは、左頬をほんの少し、腫らしていた。
目立つほどではないそれも、僕には気になって仕方がない。
どんな些細な変化にだって気付いてしまう。そのくらい僕はあなたばかりを見ているから。
「どうしたの、兄さんそれ?」
ほっぺ腫れてるよと言うと、兄さんは図書館でぶつけたのだとばつが悪そうに眉をハの字に寄せ、少し目をそらして答えた。
「また本読みながら歩いてたんだろ?しょうがないな、兄さんは。タオル濡らしてくるから、ちゃんと冷やしなよ」
呆れたような声で僕が言うと、兄さんが口元で小さく笑った。
その笑顔に、胸の中がほんのりと温かくなった。
好きだな、と、思った。
やっぱりこの人が、兄さんが、とてもとても好きだな、と思った。
「あら、だって、あなたが恋人を探しているって言ったのでしょう?」
目の前のおっとりとした、お嬢様風の女性が不思議そうに小首をかしげる。
「いいえ、僕はそんなことは一度も言った覚えがないんですが・・・・・・・・・もしや、電波か何かを受信されているとか?」
「それがあいにく、私の家はラジオも入らなくて。不便なんです」
「はぁ、そうなんですか」
女性は、困ったような顔で僕を見上げて。
「なんだか、あなたとはお話が噛み合わないみたい」
「ええ。僕もそう思います」
「まあ、初めて意見が合いましたね。それでは、ごきげんよう」
「さようなら。道中お気をつけて」
にっこりと微笑んで丁寧にお辞儀をして、女の人がゆったりとした動作で通りへと向き直る。遠ざかってゆく栗色の巻き毛を僕はただ呆然と見送る。
「・・・・・・・・・・・・・・流行って、いるのか?」
兄さんは今日も外出。寂しい反面、こんなことが続くと不在でよかったとさえ思う。
訳のわからない来訪者とはいえ、女の人が僕を訪ねてくるところなんてやっぱり兄さんには見られたくはない。へんな誤解などされたくはない。
叶う恋じゃないとは、解ってはいてもそれでも。
あなたがそれに何の興味を示さないとしても、それでも。
考え事をしている間に降り出した雨、気付いたのは髪を濡らし帰宅した兄さんの姿を見てから。
鎧の体だった頃にはよく、風呂上りに髪を乾かさずに出てくる兄さんの髪を拭ってあげたな、と、過ぎた日を懐かしみながら兄さんに清潔なタオルを差し出した。
柔らかな色合いで肌触りのいいそれを兄さんはぼんやりとした顔で見つめ、それから少し笑って受け取る。下を向いてガシガシと拭う。
ああ、そんな乱暴にしたら綺麗な髪が傷んでしまうよ。
僕が、拭いてあげたいと思った。宝物のような金の髪を優しく、丁寧に。
だけど嫌がられるのが怖くて言えなくて、暖房をつけておくからとだけ告げて兄さんに背中を向けた。
言葉少ない夕食を終えて、居間に置いていた読みかけの本を手に取って扉へ向かう。
「もう、寝るのか、アル?」
意外そうに声をかける兄さんに、ベッドで寝転がって読もうかと思ってと答えると、行儀悪いなと兄さんが笑った。
「お休み、アル」
「おやすみなさい、兄さん」
あと、どれだけ。
僕はあなたの傍にいられるでしょう。
探している本は見つかったのかと、また出かける支度をしている兄さんに声をかける。
兄さんは毎日毎日、図書館へ行くといってイーストシティに出かけてゆく。
街で、誰かと会っているのかな。恋人ができたのかな、毎日毎日、その人と会っているのかな。
行かないでほしい。ここにいて欲しい。
「アル・・・・・・・・・お前は、俺に遠慮する必要なんか、ないんだぞ」
見送る僕を振り返った兄さんの口から零れた硬い言葉。
開かれたドアから差し込む光、逆光になって兄さんの顔が見えない。
意味がつかめなくて食みかえす僕の返事も待たずに、扉が、閉じた。
広い世界でたったひとり取り残されたような心細さ寂しさ。その言葉の意味すら受け止め切れなくて、今はもう何も考えられない考えたくない。
なのに、また、玄関のベルが鳴る。
どうしてこんなことになってしまっているんだろう。誰にも会いたくなんかないのに放っておいてほしいのに。
どうして・・・・・・どうして・・・・・・・・・・・。
ふと、その女の人の手元が目に付いた。
駅からここまでの地図・・・・・・・・・と、僕の写真。
視線を外せない僕に、女の人が声をかけてきた。
「あなたが、アルフォンスさん・・・・・・よね?」
写真と僕を見比べ確かめるようにして。
「ええ、そうですが・・・・・・・・その写真は・・・・・・?」
ああこれ、と、女の人がペロッと笑う。
「見せちゃ駄目って念を押されてたんだったわ」
詳しく話を聴くために、初めて、家の中へと女の人を招き入れる。
「あなたのお兄さんだっていう人から、弟の恋人になってくれないかって言われたのよ」
真面目で思いやりがあって見た目もよくってとにかく優しい弟なんだと、それはもう必死の体で頭を下げてきたのだと、その人は言った。
「‘そんなにいい男なら、恋人ぐらい自分で見つけられるんじゃないの?’って答えたんだけど、‘あいつには最高の彼女を探してやりたいんだ’って。最高のなんて言われて悪い気はしないし、なにより、このブラコン兄貴がそんなにも大事に大事にしてる弟ってどんな子なんだろうって興味がわいて」
あらつい本音が、ごめんなさいね。と、どこかウィンリィにも似た雰囲気のその人がカラカラと笑う。僕はそれをまるで硝子越しに聞いているみたいに、なんだか、遠くに感じている。
「ごめんなさい、兄は何か勘違いをしているみたいで・・・・・・・・・こんな田舎まで来ていただいて申し訳ないんですが・・・・・・・・・」
「ええ、いいのよ。私もちょっとひやかすくらいのつもりで来ただけだから。それより、あなた大丈夫?顔色が悪いわよ」
ああ、言われてみれば指先が冷たい体が重い。まるで貧血を起こしているみたいに。
「私は帰るから、あなたは早く休んだほうがいいわ」
まるで気分を害したふうでもなく、来たとき同様あっさりと帰ってゆく。
見送らなくていいからさっさと寝なさいというその人に、僕は頭を下げた。
決定的だ、と、思った。
兄さんは僕を‘弟’として大切に思ってくれていて、だからこそ、僕のこの歪んだ想いに心を悩ませている。
女の人と付き合えば、きっと目を覚ますと思っているんだろう。
だけど兄さん・・・・・・・・・ごめん、僕は、あなたしか好きじゃない・・・・・・・・・。
僕はもう、ここに居てはいけない。
あなたの傍に居たいという僕のわがままで、あなたを苦しめてはいけない。
僕があなたを不幸にするなんて、そんなことは絶対、いけない。
僕があなたを苦しめるなら・・・・・・・・・僕はあなたの傍に居ては、いけないんだ。
あなたが、幸せに、笑えるように。
ねえ、あなたが帰ってくる前には僕はここを出て行くから、今だけ、ほんの少しだけ眠らせて。
心が痛くて、身体が重くて堪らないんだ。
ほんの少しだから。目が覚めたらすぐに出て行くから。
額に触れる、体温。熱を測るように覆う掌。細かく、震えて。
「アル・・・・・・・・・」
心許なげな声が僕の名を呼ぶ。目を開けると、兄さんが、居た。
心臓が、破裂するんじゃないかというくらいに痛んだ。
眠るんじゃなかった。あの時すぐにここから出て行けば・・・・・・・・・。
「大丈夫か、アル・・・・・・・・・?」
僕が目を覚ましたことに気付いた兄さんの手が、そっと離れて行く。
陽はまだ高く、ここ数日にしてはずいぶんと帰りが早い。
ゆっくりと起き上がり、くらくらとする頭に手を添える。
「お前の・・・・・具合が悪いって、聞いて・・・・・・・・・・・・」
「誰に、聞いたの?」
ごめん、本当は分かっているけど。
「それは・・・・・・・・・」
「毎日、女の人が尋ねてきたよ。兄さんが、呼んだの?」
自分でも驚くほど静かな、声で。
「・・・・・・・・・迷惑、だったか・・・・・?」
「迷惑っていうより・・・・・困る」
兄さんが僕の為を思ってしてくれているんだと分かるから、迷惑だなんて言えない。
「好きな人が、居るから。とてもとても好きな人が居るから」
迷惑だって、あなたを困らせるだけだって、分かっているけど、言わせて。
僕はここを出て行くから、二度と困らせたりしないから、言わせて。
他の人のことだとあなたが思うことができるように名前は言わないから、逃げ道は残しておくから、今だけは言わせて。
「僕では幸せにしてあげられない人だけど、朝も昼も晩も、その人が幸せで笑っていることばっかり願っているんだ。すごくすごく好きな人が居るから、他の人とは付き合えない・・・・・・・・・ごめんね」
苦しいのに、辛いのに、優しい声で話せるのは、愛しいからだ。
このひとがとてもとても愛しいからだ。
愛しくて、愛しくて堪らなくて、僕は兄さんに笑いかける。兄さんは、痛みを堪えるような顔をしている。
ごめんね、最後まであなたを困らせて、ごめんね。
「そっか・・・・・・・・・ごめん、アル。お前の都合も訊かないで、俺」
「兄さんは悪くないよ。兄さんが謝る必要ないんだよ」
だって、兄さんが僕のことを思ってしてくれたことでしょう?
そう言うと、兄さんが泣きそうな顔で、小さく笑った。
僕らは床の上に座り込んで、どちらともなく思い出を語り始めた。
子供の頃のこと、あてもなく国中を回った旅のこと、もう戻っては来ない人たちの思い出、もう取り戻すことのできない、一緒に過ごしてきた日々のこと。
兄さんも、意識しているのかもしれない・・・・・・・・・別れを。
僕たちはもう、一緒に居てはいけないのだと。
楽しかった思い出をいくつもいくつも並べる。
辛くても一緒に乗り越えてきた思い出たちをいくつもいくつも。
いくつも並べて、想いを愛しさを積み重ねる。
気持ちが、緩く、けれど確かに繋がっているのを感じる。
兄弟だから。苦労を分かち合ってきた、たった二人の兄弟だから。
「ごめんな、俺、お前に苦労ばっかりさせてきた」
俯く兄さんの髪を撫でたがる指先を見つめ、そっと握り締める。
「何言ってるのさ。僕が今、ここに居られるのは、兄さんのおかげでしょう?」
扉の向こうに魂までも捕らわれていたら、あなたも誰も彼も僕が死んだと思っていたら、僕はここに戻っては来られなかったでしょう?
「あの時、僕を諦めないでいてくれて、ありがとう・・・・・・・兄さん」
それに兄さんはゆっくりと首を振る。
「お前がいたから、お前が信じてくれたから、俺は歩いて来れたんだ・・・・・・・・・ありがとうな、アル」
ごめんなさい、あなたはこんなにも僕を大切にしてくれているのに。
あなたを困らせて、ごめんなさい。
とてもとても好きなのに大切なのに、困らせてごめんなさい。
悲しい思いをさせてしまってごめんなさい。
「好きになって、ごめん」
「好きになって、ごめん」
言葉が・・・・・・・・・・・和音を奏でる。
同じ呼吸で、同じ、響きを持って重なり合う。
互いの口から零れた思いもよらない言葉に、僕らはゆるゆると視線を重ねる。
今の言葉が夢じゃないなら、聞き違えでないのなら。
僕らの想いは、重なって、いる・・・・・・・・・?
でも、なら、どうして・・・・・・・・・?
「俺で・・・・・・・・いいの、か?」
僕が口を開く前に、兄さんが視線を泳がせて、まるで信じられないというように、首を振って。
ねえ、言ってしまっても、いいのかな。
「兄さんが、いいよ」
震えてこわばる兄さんの手に、そっと指先で触れる。
「だって、お前・・・・・・・・・・・・・・・・彼女が欲しいって・・・・・・・・・」
一体、何年前のことを言っているんだろうと、そんなこと何時までも覚えている兄さんが愛しくて。
「兄さんが、好きだよ」
きゅっと硬く握る手を包み込んで。
「だって・・・・・・だって俺が、お前のこと好きでいつも傍に居たくて・・・・・・・・・だから、お前、俺のせいで・・・・・・・・・」
恋人を作ることができないんだと思ったのだと、兄さんが言った。
「好きだよ。いつも傍で僕のことを大切にしてくれた兄さんのこと、いつのまにか好きになってたんだよ」
抱き寄せて、深くふかく抱きしめる。
いままでずっと諦め続けていたぶんもふかく、深く、この想いのすべてであなたのことを包み込んでしまうように。
「好きだ・・・・・・・・・ずっと好きだった。俺、おまえのことずっとずっと・・・・・・・・・」
「好きだよ、あなたのことが好きだったよ、もう、ずっと前から」
いったいいつから、想いが重なっていたのだろう。
僕らが気付かぬうちに、和音を奏でていたのだろうか。
「愛してるよ・・・・・・・・・」
「愛してる」
言葉は繰り返し繰り返し、今まで閉じ込めていた分もすべて解き放って広がる。
唇が重なり言葉が途切れても、想いは溢れてこの家中を満たした。
END