『 ひびわれてかけおちて 』(3)













 右手が、何か温かいものに包まれていた。とてもとてもやさしいぬくもり。
 祈るような声を聞いた。小さな小さなささやき。
 瞼の向こうはしろく明るく気持ちよさそうに思える。
 爽やかな風が頬をなでて過ぎてゆく。






 右手が、ぽつりと、濡れた。






 『・・・・・・・・・まして・・・・・・をさ・・・・・・・・・・いさ・・・・・・・・・・・・・』

 『おねが・・・・・・・からめをさま・・・・・・・・・・・いさん・・・・・・・・・・・・・・・』




 アル・・・・・・?アルが泣いて・・・・・・・・・る?
 あぁ、目を・・・・・・覚まさない、と・・・・・・・・。


 髪を撫でようとしたけど手が動かなかった。
 俺は、ゆっくりと目を開けた。
 どうして動かせないのか、解った。アルが両の掌で、俺の右手を包み込んでいる。
 祈るように、額を寄せて。
 ・・・・・・アル・・・・・・・・・?
 まだ、夢を見ているのかもしれない目が覚めていないのかもしれない。だって、アルがここに居るわけがない。こんなところで泣いているわけがない。


 ・・・・・大丈夫だよ、俺が居るよ・・・・・・・・・アルフォンス。


 でも夢の中だとしてもアルが悲しそうなのが悲しくて、指先に力を入れる。俺を包む手を握り返すように。
「・・・・・・・・・ア・・・ル・・・・・・?ど・・・した・・・・・・んだ・・・よ?」
 がばっ、と、アルが勢いよく顔を上げた俺と同じ色の、金色の瞳を大きく見開いてまっすぐに俺を見詰める。
「に・・・・・・いさ・・・ん・・・・・・・・・?」
 真っ直ぐに、俺もアルの瞳を見返して。
「兄さんっ!!!」
 大きな声を出して俺の腕を強く引いて。
 急激に起こされた俺の頭はくらくらと眩暈を起こして。
 抱きしめられた。強く強くだきしめられた。
 パタパタと、小さな足音が飛び込んできた。
「アル!エドがどうかしたのかい!?」
 手におたまを持ったままのばっちゃんが血相を変えて。
「兄さんが・・・・・・目を覚ました・・・・・・・・・」
 泣き出してしまいそうな笑顔をアルがばっちゃんに向ける。
「・・・・・・・・・なんだい。大声を出して年寄りをびっくりさせるんじゃないよ」
 ばっちゃんが溜息交じりの苦笑を見せる。どことなくほっとしたような。

 俺はまだ、クラクラしている。
 アルのにおいに包まれて抱きしめられてクラクラしている。



 ・・・・・・・・・・・・・夢じゃ、ない・・・・・・のかも知れない。






 けれど急激に引き起こされた身体は上手く血液が回らなくて、俺の視界はぐるぐると回って腕に足に力が入らない。
 俺は抱きしめられた腕の中でグッタリと脱力した。
「わわっっ、兄さん!?」
「アル、お前急に起こしたんじゃないだろうね?」
 ばっちゃんが鼻面にシワを深く刻んでアルを睨みつけて。
「つ・・・・・・つい・・・・・・・・・咄嗟に」
 パコーン、と、アルの後ろ頭で軽快な音が響く。
「あでっっっ」
「ほら、さっさと寝かしておやり。こんなに痩せこけちまってんだからそっとだよ」
「解ってるってば。あぁもう、ほんと、ウィンリィとばっちゃんの血の繋がりを今更ながらに痛感するよ」
「ああ、まったく今更だね」
 二人のやり取りが可笑しくて笑いたかった。だけど顔の筋肉が上手く動かなくて笑った顔が出来なくて困った。
「あ、兄さんが笑ってる」
 上手く笑えないのに、それでもアルは俺が笑っているのに気付いて微笑んで俺の前髪を指先で払った。
「お前のことが可笑しかったんだろうさ」
「ひどいなぁ、もう」
 眉根を寄せて口を尖らせているアルフォンスを尻目に、ばっちゃんが俺の脈を計る。サイドテーブルに置かれたトレイから聴診器を取って俺の胸に当てる。
「ふん、とりあえず異常はなさそうだね。アル、夕飯は出来てるからエドが食べられるようならスープを飲ましてやりな。少しずつ、スープだけだよ。その馬鹿はろくに食事もしてなかったようだからね!」
 念を押すようにそう言って、ばっちゃんは聴診器をおたまに持ち換えると部屋を出て行く。ドアのところで振り返った顔が、すこし笑っていた。
「まったく・・・・・・やっと、スープを無駄にしなくても済みそうだね」
 アルも、ばっちゃんに笑顔を向けていた。






「・・・・・・ア・・・ル・・・・・・・・・・・ど、して・・・・・・・」
 ここに居るんだ?と、訊こうとして咳き込んだ。咽喉が張り付いたように渇いて、声がちゃんと出せなかった。
「大丈夫、兄さん?お水飲む?」
 頷きで返す。
 アルが俺を抱き起こす。クッションやら枕やらをたっぷり挟んでベッドヘッドに凭せ掛ける。
 グラスを受け取ろうとした両手は力が入らずに震え、溢さずに持つことは難しく思えた。
 そんな俺を背中から抱きこむみたいに・・・・・・・・・。
 アルフォンスが手にしたグラスが、俺の口元に寄せられる。俺の顔を覗き込みながらそっと、唇にグラスを触れさせる。
 背を顎先を支えられ、ひんやりとした水がゆっくりと口の中に流れ込む。少しずつ。
 口の中が咽喉が体の中が。たっぷりと潤される感触に、夢中でグラスの中の水を飲む。
「そんなに一気に飲んだら胃がびっくりしちゃうよ、空っぽなんだから」
 一週間、眠り続けていたんだから、と、温かな掌が俺の胃のあたりに触れる。
「すっかり、痩せちゃったね・・・・・・。おなか、痛くない?」
 摩るように撫でて、深く抱きしめられる。まるで大切なもののように、深く、ふかく。
 不思議だった。なんでこんなふうに大切にされるのか不思議だけど甘くて。
 腹ではなく胃ではなく、胸が痛んだ。きゅうと音がしそうな甘いあまい痛み。


「このまま、目を覚まさなかったら・・・・・・どうしようかと、思った」





 どうして・・・・・・?





「目を覚ましてくれてよかった・・・・・・兄さんを失わずに済んで、よかった・・・・・・・・」
 震える声で。俺の髪に頬を寄せて。





 どうして?・・・・・・だって、アルには俺が居なくても、平気なのに・・・・・・・・・?



「兄さん・・・・・・どうして、あの部屋に居たの?どうしてあの鎧の傍に居たの・・・・・・?」


 俺を置いて行ってしまったのに・・・・・・。



「会いたかったよ。自分で出て行ったくせにって、兄さんは思うかもしれないけど、でも、会いたくて会いたくて、たまらなかった・・・・・・・・・」


 声の震えを感情を・・・・・・押し殺すように苦しそうに絞り出すように言って、アルの腕に力が入る。痩せてしまった俺を潰さないように懸命に力を抜こうとしているのが伝わってくる。



「ねえ・・・・・・兄さんも、僕に、会いたかった・・・・・・・?会いたかったから、鎧の僕の傍に居たの?僕が居なくて寂しかったから、こんなふうになっちゃったの?」


 心臓が、大きく音を立てた。
 ばれてしまったのかと思った。
 血の繋がった弟のアルフォンスに、恋をしているのだと、ばれてしまったのかと思った。
 体が震えた。ガタガタと震えた。
 だって嫌われてしまう。アルに嫌われてしまう。
 この身体の震えも知られてしまう。こんな隙間もないくらい抱きしめられたら。



「お願い、答えて・・・・・・・・・」
 温かなものが耳に触れて、声と一緒に動いた。




 感電して、発火する・・・・・・・・・・・・・この、身体が。


「答えて・・・・・・兄さん」
 しっとりとした唇が、俺の首筋を滑る、食む、甘く吸い上げる。
 痺れるような、はっきりそれと知れる快感に身体の震えが止まらない。


「あ・・・・・・ア、ル・・・・・・・・・・」

 どうして・・・・・・?どうして?何でお前が・・・・・・・・・こんな・・・・・・?



「兄さん、僕はね・・・・・・・・・こういうこと、したくなるから・・・・・・ここを出たんだ」



 ねぇ、答えて、と、繰り返してこたえを求められて・・・・・・・・・・・・・俺は頷いた。
 言ってもいいのかもしれないと、思った。アルがここまで教えてくれるなら俺も。
 言ってしまっても・・・・・・いい?


「会いたか・・・・・・った。アルに、会いたくて、寂しかった・・・・・・」
 寂しかったんだ。アルに会いたくて会いたくてたまらなくて苦しくて・・・・・・。
「会いたかったんだ。お前に・・・・・・会いたくて・・・・・・・・・・」
「会いたかったよ・・・・・・兄さんに会いたくて顔が見たくて仕方がなかった。でも、一緒に居たらいけないと思った。兄さんを傷つけてしまうと思った・・・・・・・・・」
「寂しくて・・・・・・どうしようもなかった」
「僕もだよ。自分で離れたくせに、兄さんに会いたくて・・・・・・寂しくて。どうにかなってしまいそうだった・・・・・・」

 声が聞きたくて我慢できなくなって、電話をしたけれども繋がらなかったのだと、アルが言った。
 電話交換手に詰め寄っても交換台には故障が見られないと告げられ、俺に、この家に何かあったのではないかと大慌てで宿を引き払ったのだと言った。
「家に帰ってみて・・・・・・出掛けた形跡もないのに姿は見当たらないし、家中埃が積もって荒れ果ててるし。あの部屋で・・・・・・兄さんが倒れてるのを見て、心臓が止まるかと思った」
 身体の向きを変えられた。強い瞳が、俺を真っ直ぐに見詰める。
「もし兄さんが、僕が居なくて寂しくてこんなことになってしまうのなら・・・・・・僕は、兄さんを僕のものにするよ。僕のにして、大切にして、ずっとずっと傍に居るよ・・・・・・」




 言ってしまってもいいのかもしれない。
 あの時、かつてアルだった鎧だけに聞かせた言葉を・・・・・・・言ってしまっても。


「・・・・・・あいしてるよ・・・・・・・・・アルフォンス」


 狂おしく、抱きしめられて。


「愛してるよ、兄さん・・・・・・愛してる」


 同じ言葉を同じ想いを返されて。


「愛してる・・・・・・」
「愛してるよ」
「あいしてる」

 同じ想いが俺を満たして俺たちを満たしてこの部屋中を埋め尽くしてゆく・・・・・・・・・溺れるくらいに。







 ずっと、この寂しさは僕だけのものだと思っていたけど、と、アルフォンスが言う。
 ああ・・・・・・そうだな。
 お前の肉体を取戻して俺の手足を取戻してすべてを取り戻した今でも。
 俺たちの精神は交ざりあって、繋がりあってる。きっと。


 会いたいと想う気持ちを共有して、寂しさを共有して、愛しいという気持ちを共有するなら。離れがたい気持ちも、傍にいたいと願う気持ちも喜びも悲しみも全て。

「離れて、二人分寂しくなるならきっと・・・・・・僕たちは・・・・・・・・・一緒に居れば二人分幸せでいられるから」



 俺たちは二人でひとつのものだから、もう離れない。
 もう、なにも欠けないように。ひび割れてしまわないように・・・・・・・・ずっと。



 欠けてしまわないように。
 ずっと・・・・・・。





END