『平行な線』
僕らは細い細い二本の線。
寄り添うように、手を伸ばせば触れられそうな
どこまでも伸びる
平行な線。
平行な線。
決して、交わることはない。
胸を圧迫する、けれど甘やかな重みに僕は眠りの世界から静かに覚醒した。
胸の上の重み、傍らの温もり。
(ああ、またか・・・・・・)
ぬくもりに手を伸ばせば、確信していた通り柔らかな髪が指先に触れる。
(兄さん・・・・・・)
二ヶ月前僕らは長い旅の末にようやく、求め続けてきた人体練成の真理を手に入れた。
今度こそは決して失敗の無いようにと念には念を入れて、一月半かけて計算を何度も何度も繰り返し、二週間前に僕らは、僕の生身の肉体と兄さんの手足を取り戻した。
あまりにも長い間鋼鉄の鎧を拠り代とする魂だけの存在であった僕は、この肉体の重みになかなか慣れることが出来ずに今でもまだ、リハビリに明け暮れ疲れて果てては眠ってばかりいる。
昏々と眠り続ける僕に兄さんは不安になるのか、時折こんな風に僕の胸に耳を当て、鼓動を確かめる。今日のようにそのまま眠ってしまうことも、もう何度かあった。
規則正しい吐息。安らかな、どこかうっとりとした寝顔。
閉め忘れたカーテン。窓から差し込む軟らかな月光。
乳白色に照らされた金糸が、誘うように煌く。
起こさないようにそっと、そっとその金の髪を撫でる。毛先にそっと口付ける。
こんなときは何時も、僕の心は、甘くて苦しい。
(人の気も知らないで)
長いながい旅の途中で、兄さんが何度もなんども繰り返した言葉。
『必ずお前を元に戻してやる』
己を鼓舞する声音で発せられるそれが、贖罪の言葉なのだと気付いていた。
僕のあの姿が兄さんを縛り付ける枷なのだと知っていた。
僕に気付かれていない心算で苦しげな視線を向けるのを確かに感じていた。
僕のために旅をして僕のために苦しみ僕のために今までの人生を費やしてきた兄さん。
だから思う。僕はもう、兄さんを自由にしてあげなければならない。
自由にして、あげなければ、いけない。
兄さんには兄さんの人生があるのだから。
もう・・・・・・僕が縛り付けていてはいけない。
兄さん、貴方はもう、僕のために苦しまなくていい。
僕の元から解き放たれていい。それが僕にとってどんな喪失だとしても、これまでの兄さんの人生を僕のためにばかり費やさせてしまったことへの贖罪なのだから。
そっと、そのやせた肩を掌に包み抱く精一杯の触れかた。血の繋がった、同じ母親の胎内で生を受けた僕らに赦される、精一杯の触れ方。
(心などとうに穢れているというのに・・・・・・)
実の兄である貴方に、家族愛兄弟愛以上の想いを抱くようになったのは一体いつのことだったろう。
その髪にその唇にその肉体に焦がれて。貴方の涙も血液も啜るように貪り尽くしたくて。
この飢える心をひと時も気を抜かず戒め続けなければならないくらいに。
'弟'である僕のために自分の人生さえ犠牲にしてくれた兄さんの綺麗な気持ちを踏みにじるようなこんな、醜い気持ちを僕が抱いているなどと知ったら貴方はどれほど悲しむことだろう。
それでも。
貴方はその罪悪感からきっと、僕に総てを与えようとしてくれるだろう。
ああ、その罪悪感に付け込んでしまえたらどんなに・・・・・・・・。
愛している。
愛している。
愛している。
愛しているんだ、兄さん。
けれどだからこそ、僕の中のわずかに、かろうじて残っている綺麗な部分が血を吐くような叫びを上げる。
愛しているからこそ、これ以上の罪を負わせてはならないのだと。貴方の人生を貴方の手に還してあげなければならないのだと。
知ってしまえばまた貴方はきっと、僕の想い、それすらも自分の罪にしてしまうのだろう。だからもう、還してあげなければならないんだ。
名残惜しむ左手に力を加え、僕は兄さんの肩を揺すった。
「兄さん、にいさん」
「・・・・・・ん」
寝惚けた子猫のような仕種で僕の胸元に額をこすりつける兄さんが愛しい。頬が緩みそうになる。苦しさが胸を締め上げる。
何故、僕らは兄弟に生まれてきたんだろう。
このまま朝まで傍らの温もりを愉しみたい欲望を僕は強引に断ち切る。
「兄さん、起きなよ」
「ぅ・・・ん・・・・・・アル?」
薄く青白いまぶたがゆっくりとあがり、蜜のような金の瞳がとろりと揺れる。
肩の上に僕の掌を見つけ、うっとりとまた目を閉じる。
あの不遜な笑みを浮かべる'鋼の錬金術師'と同一人物とは到底思えない艶をたたえた金瞳が、こんどは真っ直ぐに僕を見つめた。
「アル・・・・・・、アルフォンス」
まるで宝物のように、とてもとても丁寧な発音で僕の名前を呼ぶ。
幸せを絵にしたような顔で微笑む。
ああ、何故僕らは'兄弟'に生まれて来てしまったんだろう。
狂おしいまでの甘さ。叫び出したいほどの激情。
僕は僕をまた縛り付けなければならない。頑丈な鎖で、強くつよく強く!
そのいろめいた微笑みも、やわらかく響く声音も、しどけなく凭れ掛かる温かな肉体も総て、貴方を欲しがる僕の精神が見せる幻想。僕にだけ都合のいい甘い夢。
この手を離さなければならない。
この手を離さなければならない。
僕がこの手で、取り返しのつかないことをしてしまう前に。
「こんなところで寝たら風邪をひく」
「・・・アル・・・・・・」
その声が縋るように聞こえるのも、僕の幻聴。
僕の願望が聞かせる、都合のいい幻。
「兄さん」
「アル・・・・・・・・・」
「・・・・・・自分のベッドにお戻りよ」
絞り出すように、強いて、幼子を諭すような、かすれた声を発する。
「あったかくして、ゆっくりお休み?」
精一杯の、やさしい笑顔を作って見せる。
血を分けた兄弟に向けるのにふさわしい、清潔な笑顔を。
ほんの一瞬、兄さんの顔が泣きそうに歪んで見えたのは、僕の、欲に塗れた汚らわしい願望が見せた、まったく都合のいい幻想。
緩慢な動作で兄さんが身を起こし、ベッドを降りるのを見届ける。
「ごめんな・・・・・・おやすみ、アル」
俯いたまま、ドアへと向かう小さな背中。
「おやすみ兄さん。・・・・・・いい夢を」
お願い、兄さん。どうか僕の綺麗な部分だけを見ていて。こんな汚らわしい想いに決して気付かないで。
「ああ、お前も」
肩越しに振り返った綺麗な笑顔。その目じりがかすかに濡れていたのも・・・・・・・・・まぼろしだったのだろうか?